学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学びの共同体?

2012-08-24 | 教育
「学びの共同体」という言葉をよく聞くようになった。この理念のもとで学校改革を行って成功している事例も多々あるそうだ。しかし,この「学びの共同体」という言葉にはどうも疑問を感じざるを得ないのである。はたして,学級がそもそも「共同体」と言えるのであろうか。学級は,学級の児童生徒の意思に関係なく振り分けられ,そこには,学級で生じるあらゆることに対して統制する権限をもった教師が存在する。このような集団は,血縁的にも地縁的にもあるいは感情的にも,「共同体」の定義を満たすものではない。学級を「共同体」とみなすのは,擬制にすぎない。少なくとも,公教育のなかには,「共同体」は存在しない。公教育の目的は,国によって定められており,国の定めた免許状をもつ教師が教育することになっており,児童生徒はそれに従って学習するように組織づけられている。そもそも「共同体」は本来の意味からいって,特定の目的のために作られるものではない。したがって,「学びの共同体」が公教育の場で実現するということはあり得ないのである。もしも,「学びの共同体」を実現しようとすれば,それは私教育の場でしか実現しないのではないか。そう考えると,「学びの共同体」の考え方は,根本において,学校改革ではなく,学校解体の方向性を含んでいるものと解されるべきであろう。

「わかる授業」と言うなかれ

2012-08-21 | 教育
「わかる授業」という言葉をよく聞くが,これは恐ろしい言葉である。

私は,「わかる授業」など有り得ないと考えている。百歩譲って,もし有り得るとしても,相当に特殊な恵まれた環境のなかで,ごくまれに有り得るかもしれないという程度のものである。

そのことは,真剣に「わかる授業」を目指したことのある者なら理解できるはずである。

「わかる授業」に理屈はいらない。どんな単元でもよい。その単元の内容を,教室の全員が完全に「わかった」状態にすることにチャレンジしてみればよい。どれだけの情熱とどれだけの時間とどれだけの工夫を費やしてみても,おそらくそれは完全には可能ではない。

プロの教師ならば,「わかる授業」などという言葉は怖くて使えないはずである。「わかる授業」などという言葉を平気で言ったり書いたりする人間は,教育実践に関してはずぶの素人である。

もっと誠実に,正直にこういうべきであろう。

「わかる授業」とは,「わからない人にはわからないけれど,わかる人にはわかるかもしれない授業」であると。