学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校教育の機能と学力低下論

2007-10-30 | 教育
学校教育の機能は,
知識伝達において最も効果的であり,
その活用に熟達させることには向いていない。

なぜなら,
学校で知識を得て,
社会に出て,その活用の仕方を学ぶように
仕組まれているからである。

したがって,学校で学んだ種々雑多な知識のなかで,
自分の社会生活に必要な知識だけを取り出して,
社会の中で活用できるようになっていくというのが
本筋であろう。

活用の仕方の学習までも学校が担うことは
おそらく不可能である。

したがって,
先の学力テストの結果が示すように,
「知識」においては一定の成果が上がっているが,
「活用」についてははかばかしくないというのは,
むしろ当然のことである。

また,話題は変わるが,
同一年齢の全国民の学力分布というものを想定した場合,
時代による差異はほとんどないのではないかと思われる。

もしあるとすれば,
特定の分野の知識を得るための学習機会が,
その世代が学校に通った時代に,
あったかなかったかということに左右されるであろう。

さらに,
大学・短大進学率が,10パーセント台の昭和30年代と,
40パーセント台の昭和50年代,
そして,50パーセントを超えた現在とでは,
大学・短大において学力低下が起るのは,
その比率からいって必然的である。

むしろ,昭和30年代の高校進学者のレベルと,
現在の大学・短大進学者のレベルのほうが,
近いのである。

同じことが,高校についても言えるであろう。

義務教育学校においては,
就学が義務付けられているので,
義務教育における学力低下は,
学校教育の責任のように思われがちである。

しかしながら,上述のように,
学習機会を与えたか与えなかったかは,
学校の責任範囲ではないのである。
むしろ,教育行政やその時々の国の状況の問題である。

ところで,
学力低下論は時の教育政策を批判する目的をもって
語られることが多いというのが真相であろう。

とくにいわゆる戦後の初期社会科批判や,
ゆとり教育批判がそれである。

逆に学力低下論が行きすぎ,
学習量が過密になってくると,
詰め込み教育や暗記主義が批判される。

詰め込み教育批判や暗記主義批判もまた
学力低下論と同じく,
教育政策を批判するための論に過ぎず,
その実質がきちんと検証されているわけではない。

要は,政治的立場の違いとでもいったようなものである。

気をつけなければいけないのは,
学校教育論は,
常に政策的意図をもった
風評によって左右されているということである。

巨額の資金を投じて
全国学力テストをやってみても,
当たり前のような結果しか出ないのは,
このことを如実に示していると思うのだが。


全国学力テストの結果

2007-10-26 | 教育
全国学力テストの結果の報道をみて
思うこといろいろ。

1 学校がいろいろ改革をぶちあげても,
  あまり学力向上に効果はないんだなあということ。

2 別にゆとり教育で
  学力が下がったわけではないんだなあということ。

3 学校は,知識を身につけさせるには
  効果がある機関なのだなあということ。

4 こんどの全国学力テストにかかったお金は,
  一体どこにいったのかな?ということ。
  儲かったのは,だれ?

5 今後,とくに私立などでは
  参加する学校は減るだろうなということ。

などなど。

ゆとり教育の成果

2007-10-19 | 教育
最近気づいたことだが,
今の大学生や高校生は
昔の大学生や高校生と比べて,
グループでの話し合いや活動が
とても上手なのである。

昔は,班で話し合いなどをすると,
とても気まずい空気になって
沈黙が流れるということがよくあったが,
近頃では,
グループ学習は
教師である私自身にとっても
たいへん楽しい時間になっている。

臆せず意見をいうところとか,
身振り手振りを交えて
ユーモアたっぷりに自己表現するところとか,
みんなで何かをつくりあげることを楽しむ態度とか,
かなり昔よりも伸びている印象を受ける。

いわゆるコミュニケーション能力とか,
表現力とか,
場をなごませる工夫とか,
昔に比べて非常に伸びているのではないかと思う。

とくに表現活動は,
格段に上手になっている。

イラスト入りの彩り豊かな楽しいプレゼンボードを
やすやすとつくりあげ,
巧みに発表するのである。

確かに,知識量や緻密さ・正確さという点においては,
昔に比べてかなり心もとない印象を受けるのだが,
今の子どもたちには,
我々大人をもしのぐ力が
育ってきているのではないか,
そしてそれが,
ゆとり教育の大きな成果ではないかと
思えてくるのである。

これは,私の周辺だけのことなのだろうか?
それとも,もっと普遍的な変化なのだろうか?
ちょっと興味のあるところである。

へとへと先生

2007-10-16 | 教育
授業が終ると,
あれこれ仕事が待っている。

提出書類はたまっているし,
課外活動の指導はあるし,
保護者から電話はかかってくるし,
とにかく落ち着く暇などありません。

かくして,
授業の振り返りもままならぬ。

学校から家に帰るとへとへとで
眠くて眠くてしかたがない。

家には家で,やること山積み,
とにかく終らせ,
バタンキュー。

まあいいや,
明日の授業の準備は,
とりあえず明日朝早く起きてやりましょう,
そう言い聞かせ,床の中。

至極当然のことながら,
朝早く起きられるわけもなく,
ぎりぎりまでぐーぐー寝てしまう。

あーまた寝ちゃった。
どうしよう。
なんとかなるさ,まあいいや。

学校についたらついたで,
いろいろと,
朝から仕事があふれてる。

かくして,
授業の準備など
結局できるはずもなし。

今日も今日とて出たとこ勝負。

職員室から教室までの廊下を歩く,
ほんのわずかなひとときに,
ぱらぱらばらと教科書めくる,
それが,
唯一の教材研究。

もはや授業とは名ばかりで,
生徒に準備不足をさとられまいと,
自信ありげに授業する。
ごまかす技だけうまくなる。

「えーと,このまえ,どこまでやったっけ」
授業の始まりに言う先生は,
たぶん,生活,この通り。

先生エレジー

2007-10-11 | 教育
何から何まで子どもらに
親切にしてはいけません。

教師の愛とは,
そのような
薄っぺらなものではありません。

時期を見て
ちょっと上手に
突き放す。

子どもが育つ匙加減。

それをベテランは知っている。
知ってはいるが,近頃は,
とことん面倒見なさいと
余計な茶々が入るから,
ベテランとてもやれやれと
思いながらも世話を焼く。

子どものためによくないと
わかっちゃいるが世話を焼く。

ああ,もうこれ以上あれこれと
批判されるは真っ平御免。
過保護がよいなら過保護にしましょう。

それで子どもはダメになる。

一方,若い先生は,
頃合わからず
世話を焼く。

一生懸命世話をする。
愛情いっぱい世話をする。
「先生ほんとにありがとう」,
子どもが言うかと思いきや,
子どもは野放図,荒れ放題。

こんなに必死でやったのに,
こんなに愛情かけたのに,
なんでなんでの袋小路。

そうじゃないよとベテランが
教える余裕もありません。

そのうちベテラン退職し,
なんでなんでの若手だけ。

免許更新したとても,
毎年研修したとても,
現場のコツはつかめまい。

若い先生,今のうち,
ベテランつかまえ,
お聞きなさい。

ほんの少しのコツだけが
足りないことがわかります。

ほんの少しのコツさえも
教えちゃもらえぬ忙しさ。

ここらでなんとかしなければ,
どうにもこうにもなりませぬ。

学歴パラダイムの変換

2007-10-09 | 教育
従来,我が国における学歴,
とくに大学は,よくも悪くも,
卒業した学校の名前,
すなわち大学歴が大きな意味をもつものとされていた。

入学試験が選抜機能を果たし,
等質な学力の学生を入学させることができ,
さらに,社会も大学の機能に対して,
実利的な意味では
さして期待をもっていなかった社会においては,
大学は,アカデミズムを標榜することができた。

しかし,
さまざまな専門職学位が創設され,
大学院進学率が急上昇している現状では,
学位の種類(学士・修士・博士),
すなわち学位歴が大きな意味をもつ社会に
転換されつつある。

そして,その学位は,
やがて専門の研究者としての
資質・能力を保証するものというよりは,
一定の学修期間を修了したことを示す指標に
転換していくであろう。

そして,社会の側も
どこの大学を出たかよりも
どの学位を取得したかということを
評価対象にするであろう。

これはある意味当然であって,
少子化の進行で,
大学入試における選抜機能が低下し,
難しい入試を突破する能力をもっているという意味での
大学歴が機能しにくくなっているわけであるから,
それにかわって
個人の学修期間の長さと質,
あるいはそれを可能にする財力を
評価するしかないわけである。

このことが社会にもたらす影響は
さまざまあると思われるが,
少なくとも,
学部レベルの大学は,
すべからく基礎的学力のトレーニングと
職業訓練を主な任務とする機関に
なることだけは確かであろう。


土の校庭

2007-10-04 | 教育
土の校庭は人気がない。

砂ぼこりが多い,
維持管理や整備がたいへんなどなど,
様々な要因があるだろうが,
アスファルトにしたり,
ウレタンにしたり,
人工芝にしたり,
最近では,天然芝にしたり,
というところも増えている。

校庭を運動競技場と考えるならば,
今や,土の校庭は,
時代遅れということになるのかもしれない。

しかし,学校の校庭は,
子どもの遊び場も兼ねている多目的なスペースである。
その意味では,土の校庭は,
様々な用途に使える柔軟性をもっていたのではないか。

例えば,地面に絵を描いて遊んだり,
陣地を描いて遊ぶさまざまな遊びがあった。
子どものいろいろな遊びを受けいれる柔軟性が
土の校庭にはあったのである。

子どもの体験や活動の重視を言いながら,
実は大人たちは,
極めて教育的あるいは合理的な判断によって,
体験や活動の場を奪っているということは
ないだろうか。

確かに,
土の校庭が見た目にもあざやかな
人工芝の校庭に変ったならば,
その美しさに大人も子ども大喜びである。

だからこそ,土の校庭の持っていた
メリットは忘れられてしまうのである。

校庭の改修工事に着手する前に,
子どもたちの活動のなかで
土の校庭でなければできないことを精査して,
それらの活動が改修後どうなるかも
ぜひ考えておいてほしいものである。

蛇足ながら,
災害時などに,
校庭をどのように利用するつもりなのかも
考えておく必要があるであろう。