学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

支援より指導を

2007-11-25 | 教育
教育とは,
子どもに内在する可能性を引き出す営みであるという
言説が,あたかも絶対の真理であるかのように
浸透しているが,ここに誤りはないのだろうか。

子どもが,さまざまな面に関して可能性をもっているのか,
もっていないのかは,その可能性が実現しない限り,
わからない。
ある能力が開花した場合,もともとその子どもに
その能力を開花させるべき可能性があったのだということが
追認できるとしても,
開花していない能力の,可能性があるかないかを
判断することは無謀である。
ましてや,子どもがあらゆる可能性を秘めているのだと
考えるのは,ファンタジーに過ぎない。

とすると,
学校教育において教師は,
子どもの可能性に依拠した教育はしてはならないと
いうことになる。
そして,義務教育においては,
子どもの可能性の有無にかかわらず,
社会生活に必要な必要最低限度の
知識を身につけさせることが
第一の役目であるということになる。
そして,その教育方法は,
子どもの主体性を重視した「支援」などではなく,
子どもの主体性の有無にかかわらず,
「指導」することであるということになる。

子どもの可能性が明らかになり,
子どもの主体性も明らかになり,
そして,その可能性を伸ばす段階,
すなわち高等教育の段階にまで至れば,
「支援」もよいであろう。
しかし,初等中等教育においては,
「指導」が必要なのである。

初等中等教育における
「支援」という言葉の跋扈が,
学力保障を難しくしているのではないだろうか。

学習機会の減少

2007-11-12 | 教育
学力低下が問題視され,
授業時間の増加などが検討されているようだが,
そのようなことでは解決しない
構造的な問題が発生している。

学校段階にもよるが,
子どもの主体性を尊重した活動や体験の重視,
知識よりも問題解決能力やコミュニケーション力,
さらに表現力重視,
指導よりも支援の流れの中で,
知識そのものの教授の重要性が
中心的課題にならなくなっている。

学校選択制の導入などにより,
子どもと保護者のニーズに答えることが要求され,
児童生徒に圧力をかけて有無を言わさず勉強させることが
できにくくなっている。

高校や大学の入試が多様化したことと,
少子化の影響で,
学力判定の基準が相対的に甘くなっている。
学力そのものを問わない入試形態も多く存在する。

にもかかわらず,
高校はかつて持っていたような教養主義的側面を失い,
受験科目に特化したような,その意味では合理的な
負担感の少ない授業科目選択を許している。

大学は,
少子化の影響と競争環境の激化によって,
学生のニーズにあわせて
入りやすく出やすい状態になっている。
また,学問そのものよりも,
資格取得やスキルアップなどの
実用的な側面が重視されてきている。

そして,各学校段階において,
絶対評価の普及により,
評価のインフレーションが起こっている。

というわけで,
よっぽど自立的に勉強を続ける強固な意志がある者以外にとっては,
結局,真剣に学習するように仕向けられる機会は,
全ての学校段階を通じて失われてきているのである。

という考えは的外れだろうか?





学習指導要領はわかりにくい

2007-11-04 | 教育
学習指導要領の改訂がすすんでいるが,
学習指導要領というのは,
本当に読んでもよく意味のわからない文書である。

あれを読んで,何をどこまで教えればよいのかを
解読せよというのは,謎解きの判じ物に近い。

小学校の漢字のように,
明確で具体的なものも少しはあるが,
ほとんどは抽象的でよくわからないのである。

全国学力テストを実施して,
「知識」やその「活用」のレベルを判定しようというのであれば,
どれほどの「知識」が学年ごとに必要なのか,
どれほどの「活用」が学年ごとに到達されればよいのかの
スタンダードとして機能する具体性のある学習指導要領を
国として明確にするべきであろう。

批判されたときの予防線をはっているかのような
どうとでも解釈できるややこしい学習指導要領など
いらないのである。

現場教員で,
学習指導要領をよく読んで実践を行っている人は
どれほどいるのであろうか。

現場では,学習指導要領より教科書と
いうことになるであろう。

その教科書も,とくに義務教育段階では
なんともわけのわからないものになってきている。

いったい何を基準に教えればよいのであろうか。



優れた授業より普段の授業

2007-11-01 | 教育
教育書をみても,教育雑誌をみても,
優れた授業ばかりが紹介されている。

研究授業や研究会でも,
優れた授業ばかりが紹介されている。

でも,大切なのは,
準備に膨大な時間をかけた優れた授業ではなく,
毎日毎日繰り返される普段の授業なのだ。

準備時間も十分とれず,教材研究もままならぬ
そんな普段の授業の質を確保することが
もっとも大切なのだ。
ところが,その方面の研究にお目にかかったことがない。

優れた授業や目新しい実践などに
目を向けるのはやめて
普段の授業の充実にこそ
教育界はその研究の重点を移すべきではないか。