学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

絶対評価の危うさ

2006-08-31 | 教育
学校現場での評価が
相対評価から絶対評価に変わって久しい。

学校で現在行われている絶対評価は,
成績分布を正規分布であると仮定しない点と,
到達度を規準や基準に照らしてみるという点に特徴がある。

本来,相対評価と絶対評価の違いは,
評価のものさしをどこにとるかということだけの違いであって,
絶対評価になったからといって
よい成績がつくようになるわけではない。

どうも現在行われている絶対評価は,
規準や規準が抽象的で基準性に乏しく,
さらに
「子どものよいところを認め,励ます」という
別のファクターが深く入り込んでいるため,
またまたさらに,
到達度というものが,
個々の子どもの評価を通して,
授業そのものの効果を結果として示すという
授業評価的な側面があるために,
どうしても評価のインフレーション,
あるいは評価の平均化が起こるのである。

つまり,みんなが,
ほぼ同じような良い成績になっていくのである。

このため,現在行われている絶対評価は,
やがて評価としての意味をもたなくなり,
評価不在の状態を生み出すのである。

相対評価にも弊害があり,
絶対評価も前述のような状態に陥るとすると,

学校現場での望ましい評価の方法としては,

1 テストの素点をそのテストの得点分布とともに提示する。
 (テストの素点は,その本来の意味において絶対評価である)
2 さまざまな学習場面の状況を文章で記述して提示する。
3 面談によって1・2の評価について説明する。

といった方法以外に,
有効性のある評価方法を思いつかない。

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コミュニケーションか文法か

2006-08-27 | 教育
英語教育の潮流として,
コミュニケーションを重視し,
体系的な文法指導を軽視する風潮があるようだ。

これは全くの思いつきなのだが,
この風潮は,実に日本的な古風な考え方であるように思える。

英語そのものを体系的に把握せず,
経験を重視し,
「習うより慣れろ」という形で
英語教育をしていこうとしているわけである。

未知のものを理解するのに,
混沌のまま丸呑みし,
そのなかから忽然と理解の端緒を見出すというのは
いかにも日本的な発想であろう。

このやり方の場合,
経験の中から自分なりに体系を構築できる者のみが
英語を理解し,使えるようになるのである。
能力差が歴然と現れるはずである。

これに対して,文法というものは,
極めて欧米的な発想から生まれている。
混沌とした言語に整然とした体系を与えようとするのは,
西洋古典に発する思想であろう。

未知のものを理解するために,
誰でも理解可能な体系をもってするというのが,
西欧的な発想である。

こちらの場合は,
努力さえ惜しまなければ,
一定レベルの言語を身につけることができるのである。

いかにも欧米的な発想に見える
コミュニカティブ・イングリッシュの発想が
案外,日本古来の伝統に沿ったものであると考えると
なかなか皮肉でもある。

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夏休みももうすぐ終わり

2006-08-26 | 教育
夏休みももうすぐ終わりである。

つい最近まで,
一部の地域を除いて,
9月1日から2学期がはじまるという学校が
大多数であった。
区切りがきちんとついていたのである。

どころが,近頃
2期制の導入によって,
小学校でも8月の末ぐらいから
前期の後半をはじめる学校が増えてきたように思える。

前期と後期の間(9月末や10月のはじめごろ)に
数日の休みをとるためには,
8月31日まで夏休みにしたのでは
出席日数が足りなくなるためでもあろうか。
どうも区切りがつかない気がしてならない。

もともと2期制の導入は,
授業時間数の確保というような理由であろうが,
定期試験期間を定めている中学校以上ならともかくも
小学校で2期制にしたところで,
何らかのメリットが生ずるのであろうか。

成績通知の手間が,3回から2回に減る以外のメリットは
あまり感じられないように思うのだが。

とくに夏休みという長期の休みを間に挟みながら
終業式,成績通知,あるいは始業式という
区切りをつけられないのは,
どうも不合理なような気がしてならない。

2期制のメリットは何なのか,
思案にくれている昨今である。

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ノート雑感

2006-08-20 | 教育
学力低下が話題になっているが,
それはともかく,授業の場面で感じることは,
近頃の生徒は,
ノートを丁寧にとることがなくなってきたなという
実感である。

ノートをとるように指示をしなければ,
そして,そのノートを集めでもしなければ,
きちんとノートをとらなくなっているような気がする。

かつては,
「黒板を写しただけのノートはだめですよ」などと言っていたが,
今では,
「せめて,黒板に書いたことぐらいはノートに書いておきましょう」などと
言っているのである。

振り返ってみれば,ノートというものの性質も変わってきている。
かつてのノートは,ノート自体が格調高かった。

私が子どものころは,
ノートではなく,
「帳面」とまだ言っていたような気がするが,
その「帳面」を開くと必ず,
「よい鉛筆の削り方」と「悪い鉛筆の削り方」が書いてあった。
鉛筆削りはすでに普及していたが,
ナイフ(肥後の守)で削ることを想定して書かれていたのであろう。

それから,「書くときの正しい姿勢」が図解されていた。
手の位置や,足の位置まで細かく描かれていたように思う。

それらを見ながら,幼いながらに,「なるほど,ふむふむ。」と思いながら
緊張して,鉛筆で帳面を書いたものである。

当時の鉛筆は,時々砂利のようなものが入っていて,
書けなくなるようなこともある代物もあったので,
正しい姿勢で,力を込めて書くことは,大切なことであった。

時は変わって,現在の子供用のノートを見ると,
見開きには,さまざまな知識が書いてあったりする。
私が見た限りでは,
学習姿勢については触れていないように思われる。

さらに,漫画のキャラクター入りのノートもたくさんある。
キャラクターを入れれば,よく売れるのだろうが,
ノートに,キャラクターを入れだしたころから,
じわじわと,学習姿勢の荒廃が始まってきたのではないか。

つまり,遊びと勉強,家と学校の区別がつかなくなってしまったのではないか。
それらは,すべて大人が仕組んだのである。

ノートを書かない子どもたちは,
授業を,家でテレビかなにかを見ている気分で
眺めているのである。

テレビを見ているのであるから,
ノートをとりなさいなどということは大きなお世話である。

教師としては,45分や50分の間,
チャンネルを変えられないように,
飽きさせない工夫が大切となる。

しかも,授業評価という,
視聴率調査まで始まってきた昨今,
求められるのは,
「ノートをとる必要のない,ノートをとらなくても分かる楽しい授業」と
いうことになるのであろうか?

世も末である。

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感じるということ

2006-08-06 | 教育
自ら学び自ら考えることが強調されて久しい。

主体的な学習姿勢が求められているわけだが,
自ら学び自ら考えるためには,
実は,その前提として,
「感じる」力が大切なのではないかと
思うようになってきた。
もしかしたら,この「感じる」力の減退が,
現在の学力問題の根底にあるのではないかと
思えてきた。

五感をとぎすませて,感じ取れるか感じ取れないか
その微妙なところを,自ら感じ取る。
そのような経験が減ってきているのではないか。

いまは,学校も含めて社会全体が,
子どもたちに対して,
これでもか,これでもかと刺激を与え,
子どもたちの感覚を麻痺させてしまっているのではないか。

ゆったりと,子どもたち自身が,
さまざまなことを感じ取るための時間,
それが,本来の意味での「ゆとり」だったのでは
ないだろうか。

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