「学校は何をするところですか?」
という質問に対して,
大多数の人は,
「勉強をするところ」と答えるであろう。
当然である。
勉強するところであるからして
勉強する生徒が,少なくとも勉強する気がある生徒が,
集まっているはずである。
勉強しない生徒や勉強する気のない生徒は,
そもそも学校という場にはふさわしくないのである。
勉強しない生徒を勉強させたり,
勉強する気のない者を勉強する気にさせるのは,
実は学校の任務ではない。
なぜなら,学校は勉強するところだからである。
学校の校門をくぐるということはすなわち,
勉強しに来たということである。
校門をくぐっておきながら,
勉強しなかったり,勉強する気がなかったりするのは,
大いなる矛盾である。
この矛盾を解消するための手段はただひとつ。
「勉強せざる者,この門を入るべからず」と
校門に大書しておき,その通り実践することである。
こういう単純なあたりまえのことから
学校教育を見直さなければならないのは
悲しいことである。
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という質問に対して,
大多数の人は,
「勉強をするところ」と答えるであろう。
当然である。
勉強するところであるからして
勉強する生徒が,少なくとも勉強する気がある生徒が,
集まっているはずである。
勉強しない生徒や勉強する気のない生徒は,
そもそも学校という場にはふさわしくないのである。
勉強しない生徒を勉強させたり,
勉強する気のない者を勉強する気にさせるのは,
実は学校の任務ではない。
なぜなら,学校は勉強するところだからである。
学校の校門をくぐるということはすなわち,
勉強しに来たということである。
校門をくぐっておきながら,
勉強しなかったり,勉強する気がなかったりするのは,
大いなる矛盾である。
この矛盾を解消するための手段はただひとつ。
「勉強せざる者,この門を入るべからず」と
校門に大書しておき,その通り実践することである。
こういう単純なあたりまえのことから
学校教育を見直さなければならないのは
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不登校といっても,その原因・様態はさまざまである。
しかしながら,不登校状態にある生徒は,
学校に登校することを前提とした
さまざまなメリットを享受することはできないと考えるのが妥当である。
不登校に対する対応としては,
登校するしないの自由をもっと大幅に生徒に認めるとともに,
さまざまな学校外の学修の機会を与えることが一方で必要である。
もっと,学校制度に柔軟性をもたせる必要があるであろう。
しかし,このことは,学校外の学修を
学校に登校したことに読み替えるということと同義ではない。
学校に登校することを前提とする進学や卒業は,
正規の日数,学校に登校しない限り認めるべきではない。
学校制度の柔軟性を認めることと
学校制度そのもののもつ規律や規範性をゆるめることを
混同してはならない。
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しかしながら,不登校状態にある生徒は,
学校に登校することを前提とした
さまざまなメリットを享受することはできないと考えるのが妥当である。
不登校に対する対応としては,
登校するしないの自由をもっと大幅に生徒に認めるとともに,
さまざまな学校外の学修の機会を与えることが一方で必要である。
もっと,学校制度に柔軟性をもたせる必要があるであろう。
しかし,このことは,学校外の学修を
学校に登校したことに読み替えるということと同義ではない。
学校に登校することを前提とする進学や卒業は,
正規の日数,学校に登校しない限り認めるべきではない。
学校制度の柔軟性を認めることと
学校制度そのもののもつ規律や規範性をゆるめることを
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小学校の3・4年生のときの担任の先生は,
ことあるごとに,
「いのちは大切ですよ」
「いのちが一番大事です」
と言い続けた。
ご自身が病弱であったこともあってか,
その言葉には力がこもっていた。
何かの例話をするわけでもなく,
いのちの大切さを扱う授業をするわけでもなく,
ただ,繰り返し
「いのちは大切ですよ」
「いのちが一番大事です」
と言い続けたのだ。
いまだに覚えていることから考えて,
この先生は,
「いのちの大切さ」というメッセージを
確実に定着させてくださったということになる。
何か新しい授業を開発してもてはやすよりも
大切なことをただひたすら言い続けることが
大事なのだと気づかされる。
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「いのちは大切ですよ」
「いのちが一番大事です」
と言い続けた。
ご自身が病弱であったこともあってか,
その言葉には力がこもっていた。
何かの例話をするわけでもなく,
いのちの大切さを扱う授業をするわけでもなく,
ただ,繰り返し
「いのちは大切ですよ」
「いのちが一番大事です」
と言い続けたのだ。
いまだに覚えていることから考えて,
この先生は,
「いのちの大切さ」というメッセージを
確実に定着させてくださったということになる。
何か新しい授業を開発してもてはやすよりも
大切なことをただひたすら言い続けることが
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いじめをなくすには,どうしたらよいか。
これも単純に考えることが必要である。
いじめる人間がいなくなれば,いじめはなくなる。
いじめる人間がいなくなるためには,
クラスのだれもがいじめない人間になる方法と,
クラスのなかのいじめる人間をクラスから放逐する方法の
2種類しかない。
クラスの成員の正義感を喚起するメッセージを
教師が送り続けてもなお,
いじめが根絶されることが期待できない場合は,
強制力をもっていじめを排除する旨を教師が宣言し,
実際にいじめる人間を放逐する手続きをとることしか
いじめを解決する手段はないのである。
その実効力を行使する際の根拠が,
「いじめる側が100%悪い」という信念である。
決して,クラスの話し合いによって,
いじめを解決の方向に持っていこうなどと
考えてはいけないのである。
こと,いじめや暴力は,
クラスの問題として,
生徒が共同体的発想で,問題解決をはかるべき問題ではなく,
クラスの成立の前提として,
あらかじめ学校が,学校の規律維持を根拠として,
排除しなければならない問題である。
そこのところをはきちがえてはならない。
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これも単純に考えることが必要である。
いじめる人間がいなくなれば,いじめはなくなる。
いじめる人間がいなくなるためには,
クラスのだれもがいじめない人間になる方法と,
クラスのなかのいじめる人間をクラスから放逐する方法の
2種類しかない。
クラスの成員の正義感を喚起するメッセージを
教師が送り続けてもなお,
いじめが根絶されることが期待できない場合は,
強制力をもっていじめを排除する旨を教師が宣言し,
実際にいじめる人間を放逐する手続きをとることしか
いじめを解決する手段はないのである。
その実効力を行使する際の根拠が,
「いじめる側が100%悪い」という信念である。
決して,クラスの話し合いによって,
いじめを解決の方向に持っていこうなどと
考えてはいけないのである。
こと,いじめや暴力は,
クラスの問題として,
生徒が共同体的発想で,問題解決をはかるべき問題ではなく,
クラスの成立の前提として,
あらかじめ学校が,学校の規律維持を根拠として,
排除しなければならない問題である。
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いじめは,教師にとって頭の痛い問題である。
私は,いじめ問題については,
次のような単純化した考えが必要であると思っている。
「いじめは,常に起こりうる。
しかし,いじめは,絶対にいけない。
そして,いじめる側が,100%悪い。」
よく自分のクラスでのいじめを認めたがらない教師や,
いじめられる側にも問題があるとかいう教師や親がいるが,
いじめを温存し,正当化させるだけである。
もっと単純に,
いじめは絶対に許さないという確固たる信念と,
いじめる側が100%悪いと断ずる気迫を持って,
折に触れて繰り返し生徒に諭し続けることが,
いじめをなくすには最も効果的であるように思われる。
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私は,いじめ問題については,
次のような単純化した考えが必要であると思っている。
「いじめは,常に起こりうる。
しかし,いじめは,絶対にいけない。
そして,いじめる側が,100%悪い。」
よく自分のクラスでのいじめを認めたがらない教師や,
いじめられる側にも問題があるとかいう教師や親がいるが,
いじめを温存し,正当化させるだけである。
もっと単純に,
いじめは絶対に許さないという確固たる信念と,
いじめる側が100%悪いと断ずる気迫を持って,
折に触れて繰り返し生徒に諭し続けることが,
いじめをなくすには最も効果的であるように思われる。
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文化祭の季節である。
文化祭には,
たくさんの卒業生が訪ねてくる。
女子の卒業生は,私の目の前に立つやいなや恐怖の質問をする。
「わたしのこと覚えてますか?」
教師を20年もやっていると,
担任した生徒の数も並大抵ではない。
記憶の中の生徒名簿を一生懸命頭の中でめくるのだが,
なかなか該当者が見当たらない。
ついに,「ごめん,名前を教えてよ」という。
教師として,敗北と屈辱の瞬間である。
申し訳なさでいても立ってもいられない気分である。
卒業生は,がっかりした様子で,
「○○ですよ,忘れちゃったんですか?」という。
その瞬間,十数年前の高校生の○○の顔が鮮明に思い出される。
しかし,しかしである。
目の前にいるこの女性には,
当時の面影のみじんもない。
まるで別人である。
???
女子の卒業生とは,かくも恐ろしいものなのである。
卒業生の皆さん!
母校に恩師を訪ねたら,
まず自分から名乗っていただきたい!
伏してお願い申し上げます。
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たくさんの卒業生が訪ねてくる。
女子の卒業生は,私の目の前に立つやいなや恐怖の質問をする。
「わたしのこと覚えてますか?」
教師を20年もやっていると,
担任した生徒の数も並大抵ではない。
記憶の中の生徒名簿を一生懸命頭の中でめくるのだが,
なかなか該当者が見当たらない。
ついに,「ごめん,名前を教えてよ」という。
教師として,敗北と屈辱の瞬間である。
申し訳なさでいても立ってもいられない気分である。
卒業生は,がっかりした様子で,
「○○ですよ,忘れちゃったんですか?」という。
その瞬間,十数年前の高校生の○○の顔が鮮明に思い出される。
しかし,しかしである。
目の前にいるこの女性には,
当時の面影のみじんもない。
まるで別人である。
???
女子の卒業生とは,かくも恐ろしいものなのである。
卒業生の皆さん!
母校に恩師を訪ねたら,
まず自分から名乗っていただきたい!
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教師と生徒の関係というものは,
どこまでいっても,
通常の社会における人間関係とは違う。
親子関係とも違い,
友だち関係とも違い,
職場における上司と部下の関係とも違う。
教師は常に,
生徒の前では,
絶対的な評価者である。
教師はいつも
自分の目の前の生徒を
暗黙のうちに評価しており,
しかも,
自分が下した評価に対して
他者から修正を迫られることがほとんどない。
この点で,教師と生徒の関係というのは,
特殊な人間関係なのである。
教師は,
生徒の前では,
絶対者として立ち現れているのである。
好むと好まざるとに関わらず,
自らが絶対者として生徒の前に
立たざるを得ないことの恐ろしさを
自覚していない教師は,
教師生徒関係の構築に失敗し,
関係を崩壊させることがありうる。
要注意である。
なるほどと思った方は,上のふたつのクリックをよろしく!
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通常の社会における人間関係とは違う。
親子関係とも違い,
友だち関係とも違い,
職場における上司と部下の関係とも違う。
教師は常に,
生徒の前では,
絶対的な評価者である。
教師はいつも
自分の目の前の生徒を
暗黙のうちに評価しており,
しかも,
自分が下した評価に対して
他者から修正を迫られることがほとんどない。
この点で,教師と生徒の関係というのは,
特殊な人間関係なのである。
教師は,
生徒の前では,
絶対者として立ち現れているのである。
好むと好まざるとに関わらず,
自らが絶対者として生徒の前に
立たざるを得ないことの恐ろしさを
自覚していない教師は,
教師生徒関係の構築に失敗し,
関係を崩壊させることがありうる。
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親が自分の学校時代を思い出して
イメージする学校の姿と,
今,子どもが通っている学校の姿が
あまりにも違っていることが
学校教育に対する不安のひとつになってはいないだろうか。
学校とはこういうものだと
誰もがイメージする,
その通りのことが行われている。
そんな安心感が必要なのではないか。
そろそろ改革よりも
安定をめざすべきではないか。
よさそうに見えることを
何でも取り入れていけばよいというものではないのだ。
学校は,
時代の変化に
なるべく対応しないほうがよい。
時代によって変化しないことが,
精神的な安定感や文化に対する信頼を生む。
学校にとって,
改革しないという選択をすることが
もっともラディカルな選択になってしまった。
ちょっとおかしくはないか。
教育改革に疑問の方は,上のふたつのクリックをよろしく!
イメージする学校の姿と,
今,子どもが通っている学校の姿が
あまりにも違っていることが
学校教育に対する不安のひとつになってはいないだろうか。
学校とはこういうものだと
誰もがイメージする,
その通りのことが行われている。
そんな安心感が必要なのではないか。
そろそろ改革よりも
安定をめざすべきではないか。
よさそうに見えることを
何でも取り入れていけばよいというものではないのだ。
学校は,
時代の変化に
なるべく対応しないほうがよい。
時代によって変化しないことが,
精神的な安定感や文化に対する信頼を生む。
学校にとって,
改革しないという選択をすることが
もっともラディカルな選択になってしまった。
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考える力が大事だということもよく言われる。
そして,考える力をつける授業実践や
考える力をつける学習の方法というものも
よく提案されるようになった。
そのようなものを見ながら思うのだが,
単に生徒が考えたことをもって,
考える力をつける授業であるとか,
考える力をつける学習であるとか,
称してはいるものが多いような気が磨る。
考える力というのは,
単に考えたから,
考える経験を積んだから,
身についたというようなものではなくて,
もっときちんと
分析的に考えられるべきものではないのだろうか。
そのあたりのことを今考えている。
考えるとはどういうことかを考えはじめてしまった方は,上のふたつのクリックをよろしく!
そして,考える力をつける授業実践や
考える力をつける学習の方法というものも
よく提案されるようになった。
そのようなものを見ながら思うのだが,
単に生徒が考えたことをもって,
考える力をつける授業であるとか,
考える力をつける学習であるとか,
称してはいるものが多いような気が磨る。
考える力というのは,
単に考えたから,
考える経験を積んだから,
身についたというようなものではなくて,
もっときちんと
分析的に考えられるべきものではないのだろうか。
そのあたりのことを今考えている。
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