学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

3年待て

2008-09-28 | 教育
私が学校に就職した頃,
このように言われたことがある。

就職したら,3年は,
その職場でおかしいなと思うことがあっても,
口に出していうものではない。
じっくりと見ておきなさい。
そして,3年たったら,
自分の意見を述べればよい。

若かった私は,
ずいぶん封建的なことを
いうものだと思ったが,
あとになって考えてみれば,
これは大切な智慧だと思うようになった。

確かに,新しい世界に入ってすぐの頃は,
その職場での考え方ややり方に対して
違和感をもったり,不満をもったりするものである。

しかし,その違和感や不満の大部分は,
その職場に対する無理解からくるものである。

3年もたてば,
職場の全体像がつかめるようになり,
自分が違和感を感じた部分に対しても,
その意味が理解できるようになってくる。

そうなってはじめて,
自分の意見を本当の意味で
表明することができるようになるのである。

教育においても,
考えたことをすぐに表明させるのではなく,
よく見て,じっくり考え続けさせる時間をとることが
必要なのだと改めて思うのである。

自分なりの考えをもつことの意味

2008-09-28 | 教育
子どもたちが,
自分なりの考えをもつことを,
今の学校教育は重視している傾向にある。

しかし,気をつけなければいけないことがある。
本当は,
自分なりの考えをもつことが大切なのではなくて,
理にかなった考え方ができるようになることが
大切なのである。

「考える」ことについては,さまざまなルールがある。
読み取りのルール,比較のルール,関連付けのルール,
引用のルール,批判のルールなどなど,
そのルールを教えることこそが学校教育だといってもよい。
このルールは,「型」と言い換えてもよい。
その多種多様なルールを確実に身につけさせることを怠ったまま,
自分なりの考えをもつことが大切だなどと教えてしまうことは,
たいへん危険である。

よく授業で,
自分なりに考えさせる場面があるが,
自分なりに考えたことをもって,
よしとしてはならない。
さまざまな考え方の良し悪しを
十分に吟味させなければならない。
ルールにのっとらない考え方や
合理的でない考え方は採用されないということの意味を
子どもたちに学ばせるべきである。

自分なりに調べたことをもってよしとしてはならない。
テーマについて,
適切で必要十分な情報を収集できたかどうかが
十分に吟味されるべきである。
テーマにとって無駄な情報は意味がないということを
子どもたちに学ばせるべきである。

教師は,子どもの調べたり考えたりしたことを
きちんと吟味し,子どもの取り組みの良し悪しを
適切に判断し指導しなければならないのである。

そのあたりが
あいまいになっているような気がしてならない。







聞き上手

2008-09-24 | 教育
前にも,同じようなことを書いたことがあるのだが,
もう一度考えてみたい。

私の知っている学識・人格ともに
優秀な人物を見ていると,
彼らは決まって聞き上手である。

相手のいうことに耳を傾け,
正確に理解しようとする。

自分のもっているものさしに
あてはめようとするのではなく,
相手のものさしのあり方を
読み取ろうとする。

結果,彼らは自らのものさしを損なうことなく,
多様なものさしを身につけることになる。

よく批判的思考力が大切だなどというが,
中途半端な批判力ほど
たちの悪いものはない。

相手の思考のあり方を
まずは受け入れることができる懐の広さが,
己のものさしを振り回すより大切なのではないだろうか。

初等中等教育においても,
先賢の多様な考え方をよく吟味して与え,
それをまるごと受け入れ,理解させる訓練も
必要なのではないかと思われてくるのである。





原級留置をめぐって

2008-09-23 | 教育
我が国の義務教育は,
9年間と定められているので,
学齢期を過ぎれば,義務教育は終了する。

ところが,
法律上は原級留置が可能になっているので,
義務教育の終了は,中学校の卒業とイコールではない。


かつてのイギリスのパブリックスクールでは,
原級留置が一般的で,
何度も同一学年を繰り返すということがあったが,
一定年限が来ると卒業になるというシステムを
とっていた学校があるようだ。

つまり最上級学年に到達しないでも卒業できるわけである。

これは,なかなか面白いシステムだと思う。
学力については,当然,原級留置されるが,
生活の面については,パブリックスクールで
一定年限生活したことをもって卒業とするというのである。

なかなかおおらかな制度である。

学校の機能に対する考え方は,
国によって異なるが,
その考え方が,学校制度の在り方に反映されている。

我が国の場合,
義務教育学校はほとんどが実質的には年齢主義であり,
原級留置はほとんどなくなってきている。
ということは,学校で生活を共にする(あるいは在学する)と
いうことに実質的には卒業認定の根拠があるということになる。

このことはとりもなおさず,
我が国の義務教育学校が,
生活学校であることを示している。

ところが,最近「学力」を
ことさら重視する考え方が出てきている。

「学力」が大切なのはもちろんであるが,
それが学校において最も大切かというと,
議論は分かれるであろう。

もしも,「学力」を個に応じて最大限伸ばすということを
学校に対して要求するならば,
原級留置と飛び級がセットで導入されるべきであろう。
それが最も合理的である。

もしも,学習も含めた生活全般を身につけることが
目的であって,「学力」はその一面にすぎず,
「学力」の伸びは個々の子どもが,
限られた時間の中で伸び得る範囲でよいとするならば,
原級留置も飛び級も必要ない。

一体何を学校に求めるのか,
制度的な整合性が求められているのである。


全国学力調査についての素朴な疑問

2008-09-19 | 教育
全国学力調査の結果の公表をめぐって
いろいろと話題になっている。

よくよく考えてみると,
もしもこの調査が,
「学力」の向上を目指しており,
そのための努力を
学校や教育委員会に求めるものであるのならば,
学校教育の地域や保護者との連携を重視する
文部科学省の施策から言って
学校・地域・保護者が情報を共有して,
「学力」向上の方策を考えるというのが妥当であろう。
情報がある機関だけに独占されているというのも
何だか妙な話である。

もしも,結果を公開することが
学校や地域間の過度の競争をあおり,
教育上望ましくないというのであれば,
悉皆調査など行うべきではなかったのである。

悉皆調査を行っておいて,
結果の公表を制限するというのは
無理があるのではないか。

それはさておき,
本当に,義務教育段階の「学力」を
保証したいのであれば,
全国学力調査で一定基準に達しなかった児童生徒は
小学校あるいは中学校を卒業させず,
原級に留め置くというのが最も効果的である。

基準に達するまで,
きちんと国が無償で教育を受ける権利を保障し,
ゆっくりと学ぶ権利を確保すべきである。
それでこそ,「個に応じた教育」である。

「学力」が高いか低いかは,
学校の教育の結果でもあるであろうが,
児童生徒の個別的な問題でもある。

もともと,義務教育学校は,
「学力」をその修了の根拠とはしていない。
在学年限が事実上の修了の根拠となっている。
ある期間在学すれば,
義務教育は終わったものとみなしているのである。
つまり,同年齢集団である年数,
生活を共にして(あるいは在籍して)
学校生活を送ることが,
すなわち,義務教育を受けたということなのである。

「学力」をつけることを
義務教育の目的であるとするならば,
「学力」が基準に満たない者に
義務教育修了の認定はできないはずである。

そのあたりのあいまいさがある限り,
全国学力調査に実効性は乏しいであろうし,
現在のやり方では
あまり意味がないのではないかとさえ
思えるのである。

学習用具を整える

2008-09-17 | 教育
私が先輩の先生に習った授業作法は,
生徒全員が教科書とノート,
筆記用具を机上に出し,
教科書は,今日の授業箇所のページが開かれ,
ノートは,今日記入すべきページが開かれ,
手をひざの上において静粛な状態になっていることを
確認した後に,教壇に上がりなさいというものであった。

もし,その準備ができていない者が一人でもあるときは,
教壇に上がらず,準備が整うまで待ちなさいと
いうものであった。

私は,一所懸命この作法の実践に心がけてきた。
完全とはいかないまでも,
かなり授業の姿勢は整えることができた。

最近,いろいろなところで,
授業を参観する機会があるのだが,
子どもたちの机の上に
教科書やノートが揃っていないのに
平気で授業が進められているのを
見ることが多くなった。
先生が気づいておられるのかどうかも
疑問に感じることがある。

いったい,どうしてこうなってしまったのか。
授業の根本のゆらぎを感じている。

葦の髄から天井覗く

2008-09-12 | 教育
つまるところ,教育論というのは,
すべからく,
「葦の髄から天井を覗く」ということに
なっているのではないか。

論者が覗き得た狭い世界から,
論を構築していくものだから,
それがあてはまらない場合も多々あるのである。
無理に当てはめようとするから,軋みが出る。

だれもが,
葦の髄からしか天井を覗けないのだから,
覗き得た世界の中でしか,
自分の教育論は通用しないということを
肝に銘じるべきであろう。

一般論として語られる教育論は
そういうわけで,
だいたいは危なっかしいのである。

このブログもそういうわけで,
危なっかしいのである。

もし学校がなかったら

2008-09-08 | 教育
もし学校がなかったら,と想像してみる。
なかなか楽しい想像である。

おそらく今のような整った学校制度がなくても教育はできる。

初歩的な読み書き算を教えてくれる大人と
生活上の躾をしてくれる大人がいて,
ある程度の社会経験を積んでいけば,
いつの時代であっても,
一人前の大人にはなれるであろう。
そして,
知的好奇心にしたがって,
自主的に学ぶ者は学ぶであろうし,
高い知的レベルまで達することができるであろう。

学びたくない者は学ばないだろうが,
学びに変わるものを見いだすだろう。

いちばん社会的に問題となるのは,
そのようないわゆる学びの面ではなく,
子ども時代をどのように過ごさせるかということであろう。

早くから働かせるか,
のんびり遊ばせるか,
さて,どうしたものか。

ともあれ,
もし学校がなかったら,
何が一番困るかということを
考えてみると,
学校に期待すべき最も重要な機能が
何かということが見えてくるのではないだろうか。