学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「~のよさ」という表現のおかしさ

2012-06-24 | 教育
教育界と言うところは,変な,というか誤った言葉の遣い方を,文部科学省をはじめとして,平気で氾濫させるところである。とくに学校教育の場では,なにはなくとも「正しい」言葉遣いをすべきところであるのに,奇をてらったようなへんてこりんな言葉が次々と出てきて,教育行政も教員も無反省にその言葉を使って,恬として恥じるところがない。そのなかでも,今日は,「~のよさ」という言葉を取り上げてみたい。ふつうは,「~のよさ」という場合には,「~」に入る言葉について価値判断ができるはずなのである。例えば,「品のよさ」と言う場合には,「品がいい」という価値判断ができる。「気前のよさ」という場合には,「気前がいい」という価値判断ができる。ところが,教育界では,この「~のよさ」が濫用されていてわけがわからなくなっている。例えば,「算数のよさ」などという言い方を平気でするのである。「算数」について,「算数がいい」などという言い方があるであろうか。「算数」はもともと具体的な対象を表す言葉であって,価値を指し示す言葉ではないから,本来は,「算数のよさ」などという言葉遣いはできないはずなのである。「物語のよさ」「音読のよさ」「筆算のよさ」「跳び箱のよさ」「発表のよさ」「仲間のよさ」などなど数え上げればきりがない。最近の学習指導案などを見ていると,この「よさ」の氾濫で,頭がくらくらしてくる。文部科学省をはじめとする教育行政関係者の言語感覚の不確かさは近年とみにひどくなっている。これは推測だが,戦前の国語教育を受けた世代が現役を去ってから,このあたりの言語感覚がおかしくなってきているのではないかと,学習指導要領をはじめとする諸文書を読んで感じるのである。「言語活動の重視」などというお題目をいうよりも,「正しい国語」をきちんと大人が身につけることが先ではないかと思うのである。

共感的理解の欺瞞性

2012-06-22 | 教育
教員は,子供を共感的に理解すべきだというようなことがよく言われるようになった。

人が他人を共感的に理解することなど不可能である。もしもそれができるというのであれば,その人は相当に鈍感である。また他者を共感的に理解しようとする精神性そのものが危険ですらある。他者を共感的に理解しようとしている自分の心の動きをよく観察してみるがよい。あくまでも自分の経験と勘と理屈で,他者がこのように感じているのであろうと類推して,自分のつくりあげた感情に自ら寄り添っているだけである。自分で自分のつくった像に寄り添っているのであるから,当然,自分では共感的に理解できたと錯覚するのである。さらに,そのような態度をとるものに対して,他者のほうは,その利害ゆえに,その態度にあわせてくれているのである。その結果,自分のほうは,「私はこの人を共感的に理解している」という自己満足に浸り,救済者の位置にわが身を置くことができるのである。

「共感的理解」などというもっともらしい用語を使わず,「同情」といえばよいことである。「同情」というほうが,よほどすっきりする。と同時に,「共感的理解」を「同情」と言い換えると,その問題性がはっきりしてくるであろう。
 
学校教育における教師と生徒は,世代も違えば,経験も違う,立場も違う存在である。どこまでいっても,権威・服従関係を脱することは不可能である。なぜなら,生徒が教師の言うことを全く聞かない場では教育は成立しないから,生徒は何らかの権威によって服従を強制されているのである。このような関係のなかにあることを自覚すれば,教師と生徒が,どこまでいっても分かり合うことはできない,共感的に理解することなどできないということはおのずからわかるであろう。

教師の仕事は,生徒がこのような境遇に置かれ,このように感じ,このような態度をとり,このような苦悩にさいなまれているのであろうということを,理性的に解釈し,指導の方策を立案することである。教師はなすべきことは,生徒の境遇や苦悩に寄り添うことなどではなく,その境遇や苦悩に生徒自らが耐え,自ら道を切り開いていくための,導きの光を遠くに立って灯すことである。

教師の生徒に対する共感的理解はつねに擬似的なものである。それゆえ,教師の共感的理解によって,一時的に安堵した生徒がその機会に適切な導きを受けて,自ら立つ力を得ることができなければ,事態はさらに悪化し,教師に対する強い不信と絶望感を抱くであろう。だから,教師は,最初から,生徒に対して共感者のポーズをとってはならない。常に,お互いには分かり合うことのない,しかし,確かな導き手として,生徒の前に立たなければならないのである。その厳しさに耐え,生徒の成長を信じて導くことが本当の意味での教育愛である。それができないのであれば,プロとして教壇に立つ資格はない。