学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

気をつけましょう

2007-01-30 | 教育
「発掘!あるある大事典2」の捏造問題が話題になっているが,
効果のほどが本当は科学的には検証されていないのに,
効果があるように喧伝されていくという意味では,
巷にあふれる,さまざまな効果的教育法や学校の宣伝などにも
似たようなものがあるのではないかと思えてくる。

ちょっとみてわかりやすい事柄ほど,
実はあやしいと思ったほうがよいようである。

心をこめて丁寧に

2007-01-29 | 教育
学校でぜひとも教えなくてはならなくて,
しかも,最近の学校であまり省みられていないように
思われることに,

「何事も心をこめて丁寧にやる」ということがある。

例えば,ノートを書くにしても,
ゆっくりと時間をかけて,
丁寧に書くということが
おろそかになっていないだろうか。

生徒のノートをとる力が
年々落ちているように思うのだが,
いかがだろうか。

字の形はよいか,筆順は大丈夫か,
誤字や脱字はないか,
などに気を配って書くという習慣をつけることが
本当は大切なのではないか。

心をこめて丁寧に物事を行う習慣というものは
一朝一夕に身につくものではない。
それこそ時間をおしまず丁寧に教えていく必要がある。
まさに,ゆとりをもって教えることが必要なのである。

何事も,スピードが重視され,
「高い学力」などが喧伝され,
学力テストなどが必要以上に重視されるようになると,
逆に,学校現場からこの丁寧さの指導がさらに失われ,
むしろ逆に「学力」を低下させてしまうのではないか。

学校に丁寧さが失われているように感じるのは,
杞憂に過ぎないだろうか。

全ての子どもに高い学力を?

2007-01-27 | 教育
教育再生会議の第一次報告がまとまったことを
知らせる政府広報の中に
「全ての子どもに高い学力と規範意識を」という部分がある。

規範意識はともかくも,
「全ての子どもに高い学力」という表現は
どうもいただけない。

「全ての子ども」というからには,
義務教育の段階のことを指しているのであろう。

義務教育が全ての子どもに保障するのは,
社会生活を営む上での
必要最低限度の基礎的知識や技能などを
与えることではなかったか。

これを,「高い学力」という言葉で
言い換えていくとすれば,
義務教育の根本的な機能を見失ってしまうのである。

子どもたちの多様な実態に対して,
これほどまでに鈍感な表現があるだろうか。

そもそも,「学力」が
教育論議の中心になっていることそのものが,
学校教育の価値を矮小化させてしまうことに
気づく人は少ないのだろうか。

深く憂慮しているのである。

給食費滞納問題

2007-01-25 | 教育
給食費滞納が,22億円にのぼるそうである。

支払い能力があるのにもかかわらず
滞納する保護者も保護者だが,
それを放置してきた,
あるいは放置せざるを得なかった
学校や教育行政にも問題が内在している。

このような滞納に対して有効な手立てを学校が講じることができない,
そのことにこそ,
学校や教育行政の抱える,
あるいは抱えさせられている
問題があるのである。

給食費を支払えない保護者に対しては,
当然救済措置が必要だが,
給食費を支払えるのに滞納する保護者に対しては,
速やかに督促し,
督促に応じない場合には,
当該児童生徒には給食が提供されないというのが,
理屈の上では当然の帰結であろう。

そのような措置を取ることは
教育現場にそぐわない。
そう判断するのが教育者の良心である。

しかし,このような措置を取らないという
教育的配慮があるために
かえって,
滞納が助長されるようであれば,
それは,教育以前の問題として
是々非々で
対処せざるを得ないのである。

事態は,そこまできているのである。

実践的指導力とは

2007-01-17 | 教育
教師に求められるものは,実践的指導力である。

では,実践的指導力を構成している要素は何であろうか。

実は,教師の実践的指導力とは,
これこれであるという確固としたものはないのである。

教師の指導力は,概して個性的なもので,
あくまでも生徒との人間関係のなかで
発揮されるものであるから,
どんなベテランであっても,
対象となる生徒の違いによって
指導力が発揮できたりできなかったりするわけである。

すべての生徒と円滑な人間関係を結べる教師など
存在しないのである。

一般的な人間関係を考えてみても,
だれとでも友達になれるなどというのは,
楽天的な過大評価に過ぎないであろう。

どんな生徒に対しても
効果を挙げることができる指導法などを喧伝する人物は,
多くの場合,
はなはだ教育的ならざる意図の下で
作為的に自分の実践についての過大評価を行っているか,
もしくは,
自分の指導力の限界に全く気づいていないかのどちらかである。

このように考えてみると,
教師の実践的指導力とは,
はななだ危ういバランスのうえに
成り立つものなのであり,
なにかのはずみで失われかねないものなのである。

ベテランのまともな教師なら,
必ずこのことには気づいているはずである。

よく生徒による教員評価というようなことが
あたかもよいことのように宣伝されているが,
一歩間違えば,この危ういバランスを
崩しかねないものなのである。

学校は,
心あるベテラン教師が,
素直な胸のうちを,
安心して表明できる場所であってほしい。

しかし,それもかなり難しそうである。

大切なのは制度改革ではない

2007-01-14 | 教育
学校改革ということが言われだすと,
必ず,制度改革に着手しようとするものである。
例えば,三期制を二期制にしてみたり,
義務教育段階で学校選択制を導入したり,
土曜日に塾共催で補習授業を行ってみたり,
児童生徒による教員評価を導入してみたり,
成果連動の給与制度を検討してみたり,
などなど,目に見える改革を求めようとするものである。

これらの改革は,改革しているということが
外から見えやすいので,評価を受けやすい。

しかし,改革とは,ただ「変えた」ということに
過ぎないのであって,
その改革がよい結果をもたらすかどうかは
未知数なのである。
制度改革には必ずプラスとマイナスがある。

制度改革を行った当初は,
プラス面だけに目がいくので,
「なんとなくよくなるのではないか」という
イメージを生み出すことができる。

このイメージが,
学校の評判を高めることになるので
短期的には良好な状況を生み出す。

しかし,この制度改革の目新しさが去ったとき,
改革のマイナス面が作用し始める。
したがって,長期的に見れば,
本来その制度改革のもっていた
マイナス面の作用とともに,
「改革をしたのにダメだった」という
イメージが生まれ,
むしろ,改革前よりも悪い状態に陥ることが多い。

これを避けるためには,
改革のマイナス面が作用し始める前に,
絶えず制度改革を繰り返すしかない。

しかし,制度改革を絶えず行うことは,
学校教育の安定性を損ない,
教師や生徒の精神的疲労のもとになる。
つまり,学校が全体として疲弊していくのである。


教育にとって大切なのは,
イメージではなく,実質である。

実質的に改革を行おうとするならば,
制度をいじるのではなく,
教員と生徒の意識を変えることである。

大切なのは制度改革ではなく,
意識改革である。

ここで,望ましい意識改革を提案する。

学校の本質は,
人間と人間の関わりあいの場であるということにある。

そのことから考えると,
情理をわきまえた学校が
よい学校である。

そのためには,
学校に「人間味」を取り戻すことから
始めなければならない。

わが国で大切にされてきたものは,
義理と人情と道理である。

まずは,
職員室内を明るくなごやかな雰囲気にすることと
時間の流れをゆったりとしたものにすることから
始めなければならない。

そして,職員室内に相互扶助の関係を
成立させることである。
このことが,対生徒関係においても
良好に作用する。

とりあえず,
市場原理や成果主義から導きだされる改革とは,
すべて逆の改革をやるべきである。

この意識改革ができる学校が
実は,最終的には
もっとも成果をあげる学校となるのである。

初任のころ

2007-01-11 | 教育
ずっと昔,初任のころ,
私は典型的ダメ教員であった。

学校から帰って
へとへとに疲れて
そのまま眠り込んでしまい,
ふと気がつくと,
朝,それも出勤時刻の7分前
というようなこともあった。

学校のすぐ近くにひとりで住んでいたので,
服を着ながら家を出て
猛然とダッシュし,
職員朝会に息も絶え絶えに駆け込んで,
全職員に大笑いされたこともあった。

もちろん,ふと気がつくと,
出勤時刻を過ぎていた…ということも
何度かあった。

当時の学年主任の先生は,
こんなダメな私のために
モーニングコールをしてくださるようになった。

後で聞くと,職員室で,
「あら,また来てないわよ」
「電話してあげたら」などという会話が,
諸先輩の間でかわされていたそうである。

おかげで私は,遅刻をしなくなった。


また整理能力が全くなく
ぐちゃぐちゃになっていた職員室の私の机は
しばしば全層なだれを起こしていた。
たまりかねた先輩が,私の机を写真に撮って
「もうちょっとなんとかしたら?」と
笑顔で言ってくださった。

おかげで私は,机のうえに一切何も置かない
ビューティフルな整理技術を身につけることができた。

当時の職員室は,
わいわいがやがや,
いつも笑いが絶えない雰囲気であった。

今にして思えば,
諸先輩に温かく見守っていただいたおかげで,
なんとか教員を続けることができたと思う。

ありがたいことである。

私ほどではないにせよ,
だれしも初任のころは不適格。
ぜひ長い目で見てもらいたいものである。

可もなく不可もなく

2007-01-11 | 教育
これからの教育現場では,
がんばりすぎないことが
いちばん大切ではないだろうか。

何が大事で何が大事でないかの
自分なりの尺度をしっかりもって
仕事をしていないと
いったい何のために教師をやっているのだか
わからなくなってしまう。

目立たず,可もなく不可もなく,
といったところで
仕事をしていくのが,
精神衛生上もっともよいように思われる。

なぜなら,可も不可もなければ,
優と良ばっかりだからである(冗談)。

気に病まず

2007-01-09 | 教育
何も気に病むことはない。

自分のクラスの半分の子どもは,
自分のことを嫌っている。

自分の授業を理解できない子どもが,
教室に半分はいる。

クラスの保護者の半分は,
自分のクラス運営に不満をもっている。

これ以上,状況をよくしようとして
じたばたすると,
状況はよけいに悪くなる。

何も気に病むことはない。
淡々とやればよい。

ただ,子どもから学ぶ謙虚さだけは
もち続けていたい。

競わず

2007-01-09 | 教育
心ある教師であるあなたが
冷静に考えてみて
意味の感じられない競争に,
子供たちを駆り立ててはいないか。

子供たちを駆り立てている
自分自身が,
意味のない競争に駆り立てられてはいないか。

そのような競争のなかで
教育の本質を見失い,
自らの理想を見失い,
それでも,なにかが違うという
違和感だけは持ち続けながら,
心と体を蝕まれてしまってはいないか。

ひとつ,思い切って,
教育の本質に立ち戻ろうではないか。

その最初の旗印は,
「競わず」,
これである。

新しき年のはじめに

2007-01-08 | 教育
新しい年がはじまり,
また学校に子供たちが戻ってくる。

昔の学校では,
元旦に全校生徒を集め,
校長が講話を行い,
新年を祝ったそうだが,
今はそのようなことも行われていないだろう。

しかし,時代は変わっても,
新しい年の始まり,
新しい年の新たな決意は大切にしたい。

「あけましておめでとうございます」
の挨拶を元気よく子供たちとかわしたいものである。