学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

時分の花

2015-07-30 | 教育
教室で子供たちを教えていると,時として,子供たちのすばらしい発想やすばらしい協働に出あうことがある。そのようなとき,子供の力はすばらしいとか,優れているとかいうことに私は感心したり感銘を受けたりはしない。冷静に子供たちの営みを観察するのみである。

世阿弥の『風姿花伝』は,能芸論の古典であるが,同時に優れた教育論でもある。その『風姿花伝』の「年来稽古條々」に以下のような言葉がある。

「人も讃め,名人などに勝つとも,これは,一旦珍しき華なりと思ひ覚りて,いよいよ,物まねをも直にし定め,なほ,得たらん人に事を細かに問ひて,稽古をいや増しにすべし。されば,時分の花を誠の花と知る心が,真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ,人ごとに,この時分の花に迷ひて,やがて,花の失するも知らず。初心と申すはこの比の事なり。」

これは若者への戒めの言葉であるが,学校教育の場面になぞらえて考えてみると,子供が授業で見せるすばらしさや輝きは,「時分の花」というべきもので,やがては失われゆくものである。「時分の花」をほめられ,ちやほやされていると,「時分の花」を本当の「花」であるかのように思いこみ,「真実の花」から遠ざかり,やがては「花」が失われたことにも気付かない。「時分の花」をこれは本当の花ではないと思い定めて,年長のその道の先達(学校では教師ということになるでしょう)に事細かに教えを請い,教えに従ってしっかりと稽古を積むことが大事なのだということになるでしょう。

教師であれば,子供の見せる一時の輝きに目を奪われてはいけないのである。それは,「時分の花」にすぎず,彼らが求めるべき「誠の花」ではないことを肝に銘じておかなければならない。そして,「誠の花」に向かうための道を指し示してやらなければならないのである。

子供たちが有能であるとか無能であるとか,「時分の花」を論評しても意味がない。

教師の使命は,「時分の花」を超えた「誠の花」を見据え,子供を常に「初心」に立ち戻らせることにこそある。

知識と教養

2015-07-30 | 教育
 自分の高校時代などを振り返ってみて,ずいぶん今の学校の様子と違っていたのではないかと思うことがある。それは,建前がきちんとあったということである。

 高校で勉強する意味は,さまざまな知識を身に付け,有為な大人としての教養を身に付けることにあった。少なくとも,建前としてはきちんとそのように思われており,そのことを疑うことはなかった。普通科高校では,将来の職業にかかわらず重要であるとされる知識が教えられていたが,それは決して,大学受験のためではなかった。大学受験は私事であり,学校があれこれ世話を焼くことではなかったのである。つまり,高校は,高校として教えるべきことを教える。生徒は,もし大学に行きたいのならば,その大学の入試を解けるだけの実力を自分で身に付けるというのが,おそらく我々の時代の主流であったと思う。もちろん,現実には,高校の教師はその高校の進学率は気にしていたし,受験のための模擬試験や補習のようなこともやってくれたが,受験を目的とした授業や試験は主流ではなかったように思う。だから,早々と自分の行きたい大学の受験科目だけしか勉強せず,ほかの科目は捨てるというような勉強の仕方は,余裕のないせこいやり方と思われていた。本当に優秀な生徒は,受験に関係あろうとなかろうと,すべての分野について努力をおしまなかった。また,受験勉強そのものにしても,当時の参考書は大学受験のレベルをはるかに超えていたものが多くあった。当時の参考書の執筆者は,おそらく大学の先生方であっただろうが,どんな教科についても,受験を超えたところに広がっている学問の広く深い世界を高校生や大学受験生に垣間見せてやろうとする愛情があったように思う。もちろん,当時も手軽に苦労なく受験知識を身に付けることができるという売り口上の参考書や問題集はあったが,それらはいわば亜流であり,本流ではなかった。受験勉強の合間に,洋書を買ってみたり学術雑誌を買ってみたり,背伸びしたものである。学生服のポケットに哲学書を入れている生徒がいたような時代である。

 学校で教わることをきちんと身に付けることがきっかけで博識となり,さまざまな知の世界への切符を手にすることは,教養人への第一歩であった。教養人であればこそ,将来どのような人生の苦難が待ち受けていようとも,決して失われることのない知の世界への手掛かりを手にしているわけだから,それを一生糧にして生きていくことができる。

 クイズ番組は単なる知識を問う問題が多いが,そこで正答を多く答えることができる博識な人が輝いてみえるのは,そのような知識に裏打ちされた教養人としての生き方が垣間見えるからではないかとさえ,思うことがある。

教育改革のレトリック

2015-07-20 | 教育
昨今の教育改革のレトリックを戯画化して,対話形式で御披露してみよう。

改革推進派:今までのやり方では,これからの社会では通用しませんよ。
気弱な教員:そうなんですか。なんとか工夫しながらやってるつもりなんですけど…。
改革推進派:ダメダメ,そんな古いやり方じゃ,未来を担う人材は育ちませんよ。
気弱な教員:じゃあ,どうすればいいんですか?
改革推進派:それは,○○をやればいいんですよ。○○をやれば,子供は劇的に変わります。なんなら,○○の研修を受けていただければ,効果が実感できますよ。
気弱な教員:それじゃ,お願いします。(○○の研修を受ける)
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気弱な教員:あのお,○○やってみたんですけど,あまり効果があるようには思えないんですけど。
改革推進派:それは,あなたのやり方が悪いからですよ。あなたのやり方は○○のうわべだけをなぞっていて,○○の本質がわかってらっしゃらない。資質の問題かもしれませんけど。
気弱な教員:じゃあ,本当の○○ができるようになりたいので,教えてください。(さらに○○を勉強する)
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気弱な教員:なんか,○○をやると,子供が生き生きしてきたような気がしてきました。落ち着きはなくなりましたけど。。
改革推進派:それが○○の効果ですよ。落ち着きがなくなったんじゃなくて,積極的で活動的になったんですよ。最新の××学の知見をもとに,大学でも効果が実証され,いまや全国の学校に広まりつつある方法ですからね。
気弱な教員:わたし,そんなすごい方法を身に付けたんですか~。うれしい。これから,みんなに宣伝します!

もうお分かりだろう。このようなやり取りが実社会ではどのような場面で行われるかを。これ以上は言うまい。

気弱でまじめな先生方は,自分の実践に誇りをもつべきである。上記のような改革推進派には,ひとこと,「間に合ってます」と言ってやればよい。例えば,授業がうまくいかないときは,苦労して自分で解決策を練り上げなければならないのである。いろいろと学んで知見を広めることは大切だが,幅広く様々な考え方を学び,自分の経験と照らして,自分なりの形を整えて自分のものにして実践すべきである。また,とくに学校では年配の先生に謙虚に教えを請うべきである。年配の先生の経験を馬鹿にしてはいけない。答えは目の前の子供たちのなかにしかないし,どこでも通用するような特効薬や万能薬はない。教育は,生身の人と人との関係のなかでしか成立しない。現場経験の乏しい人間に上手な授業はできない。最も尊いのは,名もなき教師の経験である。プロフェッショナルならば,外の権威にすがるべきではない。現場のプロの実践こそが教育改革なのである。

アクティブラーニングとレトリック

2015-07-19 | 教育
いろいろとアクティブラーニングについて批判的にいろいろ書いているが,もう少し考えてみたい。

なぜ,アクティブラーニングが「よい」のだろうか? そこのところがどうしてもわからないのである。アクティブラーニングが「よい」のであれば,講義だって「よい」のである。アクティブラーニングのほうが「よりよい」ということは,一概には言えないはずである。我が国におけるアクティブラーニング言説は,カウンターディスコースとして捉えるしかないように思われる。講義形式の授業を,受け身で知識偏重であると断じ,そこで教えられるような単なる知識や技術では,高度経済成長期までは通用したが,「これからの時代」には通用しないとする言説である。実は,この前提そのものが間違っているのではないかと考えている。

欧米においては,講義であれ,アクティブラーニングであれ,ともにレトリックを重んずる伝統的な土俵の上にきちんと乗っているように思える。レトリックを駆使して話すのが,教師でもあり学生でもあり,そこには,客観的な論理の指標が厳然としてあるように思われる。講義もあり,アクティブラーニングもあるのである。アクティブラーニングにおける課題解決というのも,レトリックをどのように組み立てるかということに主眼があるように思える。我が国の場合は,そのバックボーンが不確かである。実は,アクティブラーニングで育つ力は,レトリック,つまり,白を黒と言ったり,黒を白と言ったりする力であるにもかかわらず,我が国では,何か「よい」こと,「正しい」ことを見つけ出す力であるかのように思われているように見える。この根本のところにずれがあるように思える。ディベートを例に挙げれば,ディベートはレトリックを用いた,ただの遊びである。ディベートの勝者は,正しい結論を導いたから勝利したのではなく,そのレトリックが賛同を得たというにすぎない。think pair shareやジグソー法も正しい結論に至るための方法ではない。欧米では,そこらへんの限界はよく理解されているように思われるが,我が国ではどうであろうか…。

昔の先生はよく言ったではないか。「自分たち同士で話をして分かった気にならないで,きちんと先生に質問しなさい」。正しい知識があるというのであれば,教師が教えなくてはならないのである。正しい知識などないというのであれば,教師も生徒の輪の中に入って,一緒に対等に議論しなければならない。ファシリテートなんてしている場合ではなくなるのである。

アクティブラーニングと協働性と学習効果のレベル

2015-07-16 | 教育
アクティブラーニングのとくに,協働性の文脈で,意見を出し合って考えるということが推奨されている。本当に,他者と意見を出し合って考えることで考えが深まったり,理解が深まったり,課題解決に近づいたりするのだろうか? 経験的に考えて,それはケースバイケースだろうと思える。つまり,誰と話をするかによるのである。自分がなるほどと思えるような,自分にはない優れた発想をもっていて,かつ,自分の話にも理解を示してくれるような人と話をするならば,自分の学びは深まるだろう。教室でいえば,教師と話す方がよっぽどよいのである。協働で課題解決をしようとして,同年代の生活環境も類似した同じようなレベルの友人と話をしても,出てくる考えが発展的なものになる可能性は低いだろう。みんな同じような意見で,時々突飛なことを言う者もいるだろうが,それはまあまあとなだめられ,妥協的なそこそこの意見でまとめるということになるだろう。それならまだましで,関係ないおしゃべりで時間をつぶしてみたり,誰か一人の考えを,それいいじゃないということで全体の意見ということにしてみたりするだろう。考えが深まったり,理解が深まったり,優れた解決策を見いだすためには,一人でじっくりとその問題に時間をかけて取り組むか,もしくは,優れた教師との関わりが必要なのである。同質性の高いクラスメイトといくら協働的に学んだとしても,ほとんどおしゃべりの域を出ないのが現実である(そう言うと,それはファシリテートの仕方が悪いという反論が用意されているが,ファシリテートしなければまともに課題解決できないレベルの者にいったい何ができるというのであろうか?)。実は,このような学習が楽しいという感想を持たれるのは,おしゃべりレベルだからである。おしゃべりレベルで解決策を見いだした達成感だけは得られれば,楽しいと感じる者も多いだろう。自分の考えを根本から覆されるような,自分のいる位置からはるかに高いところに引っ張っていくような厳しい学びが楽しいはずがない。もし,そのような厳しい学びが楽しいという人は,マゾヒストである。

頭を使って考えた気がする,よく学んだような気がする,友達の話がおもしろかった,自分もうまくしゃべれて楽しかった,ちょっとこれからも勉強してみようかな,それが,アクティブラーニングの効果である。アクティブラーニングの効果は,講義で居眠りをしているよりは効果があるというレベルの話にすぎないのである。

子供の主体性?

2015-07-12 | 教育
アクティブラーニングなどの文脈で,子供の主体性が強調されるようになってきた。主体的な学びという言い方もある。このブログでは何度も主張しているところであるが,学校には,子供の主体性など存在しない。学校は,子供を一定の制度的枠組みの中で,定められた学習内容を伝達するようにつくられた公的機関である。したがって,学校の主体は,大人であって,子供ではない。子供は将来の主体となるべき人間として育てられるが,主体となるのは,卒業後,大人になってからである。子供は,未熟で主体性のない存在であるから,教師が必要なのである。この当然の理路を曖昧化するのが,「子供の主体性」や「主体的な学び」という言葉である。私は,この言葉のもつ欺瞞性が大嫌いである。

本当に子供が主体的に判断するならば,即刻,学校などは廃止するであろう。学びたくなどない,ずっと遊んでいたいと思うのが子供の本音だろう。
大人は子供を学校に縛り付け,教えるべきことを強制的に教え込んでいるのである。そのことの自覚をもつべきである。主体性と大人が言うときには,子供に,大人の望む主体的な振る舞いを強制しているのである。子供は,子供として社会で生きる術をよく心得ているから,大人のこのような強制には,おおむね従うほうが有利であることは本能的に知っている。つまり,大人に許される範囲の疑似主体性を発揮するのである。だから,学校を廃止せよなどという本当に主体的な主張をする子供はあらわれない。大人の自己満足を満たすように子供は振る舞ってくれるのである。

学校を改革するとすれば,このような欺瞞を学校から排除することが最も重要なことである。教師は,子供の自由を奪い,強制的に大人の決めた方向に導く仕事であるという重圧から逃げないようにすることが大事なのである。子供の主体性などという言葉は,教師や教育学者がこの重圧から逃れるための逃げ口上に過ぎない。

覚えることの大切さ

2015-07-12 | 教育
昔,大学生の頃,ある英語を含む試験で不合格になったことがある。

そのとき,私は指導教官に呼ばれて,その方はハーバード大学を優秀な成績で卒業された方であったが,次のような御指導をいただいた。

「英語を読むときには,分からない単語があったら,それを辞書で調べ,単語帳に書き留めて,それを繰り返し見て覚えるのですよ」

この言葉をいただいたとき,私は,顔から火が出るほど恥ずかしかった。まるで中学生が言われるような言葉だったからである。しかし,後になってよくよく考えてみると,結局,英語を読むためには,その方法を地道にやり続けるしかないのだなと気付かされた。その先生は,英語を自由自在に操れる方であったが,先生もそのようにして,英語を学ばれたのであろう。結局,覚えることをおろそかにしては,どんな力も身につかないのである。

覚えることを軽視し,「単なる知識や技能」の「詰め込み」などという粗雑な表現をする人たちは,本当には勉強したことがないのだろう。

アクティブラーニングは学力を低下させる

2015-07-11 | 教育
アクティブラーニングがもてはやされているので,再度警告を発しておきたい。まずは,PISA型学力がそうであったように,アクティブラーニングも一時の流行に止まるであろうことを予言しておく。10年後にはだれもこの言葉を口にしないであろう。

さて,現場で通常の感覚をもった教師ならば,本当にすぐにわかることなのだが,アクティブラーニングでは知識の定着は保証できない。
知識定着には時間がかかるのである。もともと一斉授業の講義形式であっても,学生生徒の理解の度合いを測りながら話すものなので,分かりにくいだろうと思うところは繰り返してみたり,説明方法を変えてみたりと工夫をしながら話すものである。日本のようなカリキュラム構成でアクティブラーニングを行えば,知識の収集は学生の主体性にまかされるままになってしまうであろうから,本当に素質のある賢い子供しか知識を得ることは出来ない。どんな子にも学習に対して主体性があるなどとは,よっぽど主体性信仰に帰依していない限りは,考えにくいのである。さらに,協働性が発揮されてしまえば,できない子は,自分で何も学ばなくても,できる子が助けてくれるわけであるから,できない子はできないままでも何ら不都合はなくなってしまう。

それに,知識の裏付けのない主体性や協働性など,それこそ危険である。その証拠に,アクティブラーニングを推奨する文脈でよく引用されるラーニング・ピラミッド(学習定着率が講義は5%で,読書が10%,それからいろいろ続き,他人に教えると90%というもの)そのものが根拠の怪しいものであることはよく知られている。ラーニングピラミッドを肯定的に引用している文献は信用するなと言われているほどである。もともと,アクティブラーニングの学習効果などさして根拠のあるものではない。もともと講義をじっと聴けなくなった学生に,どう教えたらよいかと困ったあげく考え出されたものであることからして,それほど積極的に推進されるべきものでもないのである。とくに,小中学校のような基礎知識をしっかりと身に付けなければならない世代にまでアクティブラーニングをやらせたのでは,高慢で無知な子供を増やすばかりである。学力低下は必至であろう。

静かに落ち着いて話を聴き,じっくり一人で考えることではじめて,学ぶことができる。釈迦も達磨もひたすら座ったのである。アクティブラーニングでは悟りに至ることはできない。