学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

もっと文章を書かせましょう

2008-07-28 | 教育
学力低下論にはあまり与したくないが,
学校で,
子どもたちに文章を書かせる機会が減っているのは
確かだろう。

確かに,子どもたちに文章を書かせて,
それを一人ひとり添削して返却するというのは,
とても骨の折れる仕事なのだが,
やはりそれをやらなければならないのではないか。

夏休みの宿題といえば,
読書感想文が定番だったが,
全員必ず提出というわけでもないところもあるようだ。

文章を書くことは,
子どもたちにとっては,
とてもたいへんなことなので,
苦痛を感じる子どもも多い。

でも,その苦痛を軽減するためには,
何度も書かせる以外にないのである。

書かせなければ,苦痛は苦痛のままである。

やはり,強制的にでも,
長い文章を書かせる訓練をしないと,
思考力も表現力も育ってこないのではないかと
思われてくる。

子どもも苦痛,教師も苦痛,
だからこそやらなければならないのではないか。

高校生や大学生の文章をみていると,
ときにとんでもなく支離滅裂な文章や
支離滅裂な表現,漢字表記に出合うことがある。
なせ,これが小さいときに修正されなかったのかと思うと,
内心忸怩たるものがある。

やはり,教育は,
文章の添削のような地道でめだたないところに
じっくり時間をかけるべきではないかと
思えてくるのである。

子どもの写真を撮ってよいか

2008-07-25 | 教育
よくよく考えてみると,
昔の先生は,
子どもたちの写真,
とりわけスナップ写真などを
自分で写すなどということは
あまりなかったように思う。

かつての学校の場合,
だいたい写真を写すのは,
写真屋さんだったように記憶している。

最近は,
デジタルカメラや携帯電話のカメラ機能等の普及もあり,
写真がずいぶん手軽なものになった。

そして,
教師が子どもたちを
写すようになった。

子どもたちからしてみると,
あまり深く考えずに
よろこんで写っている場合もあれば,
中学生ぐらいになると
怪訝な顔をする場合もある。

教師が子どもたちを写すのは何のためか。
校務として,
記録写真を撮る係である場合もあれば,
単なる趣味である場合もある。

でも,よくよく考えてみると,
プロの写真屋でもない教師が,
子どもの写真を
保護者や本人の許諾なく撮影する権利が
果たしてあるのだろうか?

写真のネガやデータが,
教師個人の持ち物になる場合などを考えると,
はなはだ疑問なのである。

教師が子どもたちの写真を写すことは,
基本的には好ましくないことなのではないかと
思われてくる。


ワークシートの弊害

2008-07-21 | 教育
最近は,ワークシートが大流行である。
なんでもかんでも,ワークシートが配られて
授業は,ワークシートに沿って進められる。

子どもたちは,自ら思考する機会を奪われ,
教師の考えた道筋どおり連れまわされることになる。
ノートをまとめる力も身につかない。

これらすべて,
ワークシートに対する考え方の間違いから
来ているように思える。

アメリカのワークシートなどをみると,
ワークシートは本来,思考の道筋を示すもので,
子どもたちが思考の枠組を身につけるために
使われているようである。

したがって,
日本でよく使われているワークシートのように,
単元ごとに問いの書かれている
その授業のためにつくられたワークシートが用いられるのでなく,
もっと汎用性の高い,
単元にしばられないワークシートが多く用いられている。

その授業で必要とされる思考様式や
身につけさせたい思考様式にあわせた
ワークシートが何度も使われるのである。

さらに,
ワークシートに記入して終わりということには
しないようである。

ワークシートに記入させた後,
必ずその内容を,自分で文章化させている。
ワークシートはあくまでも思考のツールとして
用いられているにすぎない。

したがって,学習が進めば,
ワークシートによって身につけた思考様式を,
ワークシートなしに用いて,
文章を書いたり,話したりすることができるようになるのである。

我が国で広く用いられているワークシートには,
そのような展望が見られないのである。
ワークシートも使いかたに気をつけないと,
かえって,
学習能力や思考力が低下させてしまうのではないかと
思われるのである。

学校ホームページは必要か

2008-07-19 | 教育
最近は,
私立学校だけでなく,
公立学校もこぞってホームページをもつようになった。

ホームページというものは,
つくりっぱなしでは役に立たないので,
定期的な更新が必要になる。

また,生徒が修学旅行にでかけたときなど,
リアルタイムで,その様子の写真などを
保護者向けに掲載する学校もある。

それらのメンテナンスのために
人材が配置されることは極めてまれである。
したがって,すべて教員の仕事である場合がほとんどである。

しかし,これらの仕事は,
本当に教師のなすべき仕事だろうか。

子どものために割くべき時間が,
広報や過剰サービスの時間に置き換わっているのである。

学校,とくに公立学校に,
ホームページなどが本当に必要なのかどうか,
慎重に考える必要があるように思う。

誇張や美化はやめましょう

2008-07-19 | 教育
学校から発信する文書に,
誇張や美化はありませんか?

学校の姿を,本当に見えている姿以上に
よく描いてはいませんか?

学校がこぞってホームページを開設し,
色刷りのパンフレットを作成します。

そこにも商業主義の波が押し寄せます。

誇大広告になっていませんか?

ことばは,大切にしなければなりません。
できるだけ,真実を包み隠さず伝えなければなりません。
それがたとえ,学校にとって不利なことであったとしても。

ただ,残念なことに,今の世の中では,
誇張や美化のない誠実な学校に,
生徒は集まらないのです。

不文律を大切に

2008-07-17 | 教育
教育は,つまるところ人と人との関係である。

人と人との関係について,
それを完全に記述することは不可能である。

書かれたその段階で,
すでにバイアスやフィルターが
かかっているし,
意図的な錯誤や虚構が含まれているかもしれない。

書かれたものは決して真実を表さないというのは,
表現行為の宿命でもある。

ここのところ,学校でも,
ミッションやビジョンを記述したり,
PDCAやSWOT分析等の記述を求められることが
多くなった。

学校教育をそのようなものであらわすことは,
確かに目先のかわった面白い試みではあるかもしれないが,
それ以上のものではない。

学校の真実は,
決して書くことのできないところ,
書かれないところにこそ存在するのであって,
その意味で,学校を動かしているのは
不文律である。
それは,学校に集う人の集団が作り出すものでもあるし,
また,学校の歴史が作り出すものでもある。

学校のあれこれを,目新しい方法でいろいろ記述してみて,
その面白さに心奪われ,
学校の真実を見失う愚は避けるべきである。

それよりも,
それぞれの学校のもつ不文の法をこそ謙虚に読み取るべきなのである。

改革の意味

2008-07-17 | 教育
改革というものは,
現体制の部分的な変革によって,
現体制の崩壊や全面的変革を避けるために行われるものである。

つまり,改革が企図されるための必然的な前提とは,
現体制の崩壊や全面的変革の危険性が迫っているということにある。

これを教育改革についてみてみると,
学校教育体制の崩壊や全面的変革の危険性が
客観的にみて迫っているのかどうかを問い直す必要がある。

あたかも重大な危機が迫っているかのような
プロパガンダは多く行われているが,
ほとんどが冷静な議論を経たものではない。

教育改革は,
現体制の問題を取り除き,
新しい体制に変革することによって,
現体制のもつ問題点が解消され,
よりよい教育が行われるかのように
喧伝されるのだが,そこに落とし穴がある。

現体制の問題とされるものが,
問題ではない可能性や,
新しい体制に変革することによって,
新たに問題が発生する可能性については,
巧みにふせられているからである。

教育改革に効果があったかどうかについては,
将来的に検証できる可能性が極めて薄い。

なぜなら,改革の効果が出る前に,
次の改革が企図されるからである。
いつまでも改革をし続けることで,
改革の意味の検証を永遠に避けることができる。

よって,すべての教育改革において,
その意義や効果は,仮説の領域を出ることはない。
しかも,かなり大胆で突飛な仮説であることも多い。

学校にとって必要なのは,
改革ではなく,日常のゆるやかな変化である。
体制を維持しつつ,そのときそのときの
子どもたちの様子によって,
実践の状況をその場その場で変化させていく。
その営みを続けること以外に,
学校をよくする方法などないということに,
そろそろ気づいてもよい頃だと思うのだが。


価値観のゆらぎが学校を滅ぼす

2008-07-16 | 教育
学校は,
「けんかをしてはいけない」と教えるところである。

「子どもはけんかをして育つものだ」という価値観を
決して認めてはいけない。
それは,学校外の世間の価値観である。
世間の価値観にはもちろん意味がある。
しかし,それを学校に持ち込んではいけないのである。

学校は,あくまでも,「けんかをしてはいけない」という
価値観(倫理観)を貫くべきなのである。

そのあたりの価値観がゆらいでいる。

学校自体のもつ価値観がゆらぐと,
学校教育のバックボーンが失われ,
教育が成り立たなくなる。

また,学校に会社経営的な発想を持ち込んではいけない。
学校は,利潤追求をする組織ではないからである。

学校経営,学級経営という訳語がよくない。
managementは,「管理」とでも訳すべきだったのではないか。

そのあたりが,こんがらがって,
「我が校の「売り」は,○○です」などと言い始めたら,
その学校はもう終わりである。

児童生徒や保護者は,学校という共同体を構成する
メンバーではあっても,顧客や消費者ではない。
あえていえば,「同志」である。

同志であるからには,
苦難も共有してもらわなければならない。

そのあたりの価値観がゆらいでいる。

教育は,
形があるものを作り出す営みではないという意味で,
サービスと言ってもよいが,
いわゆる顧客サービスという場合のサービスと混同するのは,
はなはだ軽率である。

また,
「我が校は,生き残りをかけて,入学者を集める」などと
言っている学校は,もはや学校ではない。
入学者がいなくなったときは,役割を終えた時なのである。

役割を終える時まで,粛々と,日々の教育に専心すべきである。

そのあたりの価値観がゆらいでいる。

無理に入学者を集める必要などない。
入学者を集めるための「改革」ほど,
教育にとって害悪となるものはない。

このような価値観のゆらぎの危うさに,
教師は気づいているはずなのだが…。



優秀さはインプット能力に左右される

2008-07-14 | 教育
優秀な人物が保持している能力として,
情報をインプットする能力(情報収集力)と
インプットされた情報を保持する能力(覚える力)と,
それらの情報を処理する能力(考える力)と,
処理された情報を適切な形でアウトプットする能力(表現力)が
あるように思われる。

最近は,情報処理能力,つまり「考える力」や,
アウトプット能力,つまり「表現力」が重視される傾向がある。

それはそれで結構なことなのだが,
逆に,
インプット能力ということについては,
なかなか目が行き届かないのは残念である。

優秀な人物というのをみていると,
必ずといっていいほど,
聞き上手である。
相手がどんな相手であっても,
自分より優れている優れていないというような
瑣末なことには関わらず,
きちんと相手の言いたいことを的確に把握し,
それらを
自分の糧とする力をもっている。

やはり,最初は,
かつての学校のように,
インプット能力をいかに高めるかということを
もう一度見直すべきではないだろうか。

覚えられない頭では考えられない

2008-07-11 | 教育
「覚える」ことよりも「考える」ことのほうが
大事だという言い方が未だに跋扈している。

しかし,物事をあまり覚えていないのに,
考える力に優れた人というのに
出会ったことがない。

やはり,考える力に優れた人というのは,
ある特定の分野であるにせよ,
非常にいろいろなことを覚えている人である。

「覚える」ことよりも「考える」ことのほうが
大事だなどと言われて,
「覚える」べきときに,
「覚える」ことをしてこなかった子どもは,
勝手な思い付きを言い散らすことはできても,
「考える」力など身につかないのではないだろうか。

調べたいことと調べるべきこと

2008-07-11 | 教育
子どもが調べたいことを出し合って,
自分が調べたいと思うことを調べるというような
授業が多くなってきたのは,
いつごろからだろうか?

調べたいことを調べるということで,
本当によいのだろうか?

調べたいことよりも,調べるべきことを
優先すべきではないのだろうか?

発達段階にもよるのであろうが,
いつまでも,調べたいことを調べていたのでは,
調べるべきことを見落としてしまう。

やはり,教師は,調べるべきことを
きちんと提示すべきではないだろうか?

リーダーシップを育てるということ

2008-07-06 | 教育
我が国の学校で,
学校そのものとして
リーダーシップ育成に特化した教育課程の編成は
できないようになっているが,
学校の精神性として,
リーダー育成を掲げる学校はかなりあるようである。

しかし,
リーダーとは何かということについての理解は,
まちまちであろう。

以前にも述べたことだが(TB参照),
我が国には戦後,
階級社会を背景とした
固定的なエリート層が存在しないことから,
エリートといっても,単に知的エリートであって,
その実態は,多くは賃金労働者である。

その意味では,
支配的なリーダーシップを
持続的に発揮しうる場面などほとんどない。

そのような状況の中での,
リーダー教育とはどのようなものであるべきか。

それは,民主的リーダーシップに徹することである。

すなわち,自らの知的優越に奢らず,
自分の身を低くすることのできる謙虚さを
骨の髄まで叩き込むことである。

自分が他人より優れていると思ったとき,
その人間は,リーダーたるの資格を失うのである。

リーダーが永続的にリーダーであるわけにはいかず,
リーダーとフォロワーが常に交代する可能性の強い社会であってみれば,
よきリーダーシップとは,
よきフォロワーシップと相通ずるものでなければならない。

自分が他より優れているから,
他を導く権利があるのだなどとは,
ゆめゆめ思わせてはならないのである。

リーダーの位置にあるのは,単なる偶然であって,
他に仕えさせていただくためであると
思えるリーダーでなければならない。

そして,いつでもリーダーを他に譲り,
フォロワーに転じることのできる気構えを
もっていなければならないのである。

この点をはきちがえたリーダー教育はむしろ危険である。

学校教育の意味

2008-07-05 | 教育
学校教育の意味を考え直してみたい。

学校を英語で言うと,schoolであり,
これが,ギリシア語のスコレー(閑暇)から来ていることは
よく知られていることである。

学校が日常生活における仕事(business:BUSY+NESS)と
全く対置されるべきものであることは明らかであろう。

そもそも学校とは,
日常生活における食べるための仕事から
解放された空間なのであって,
実用性の故に学校があるわけではない。
我が国の実学主義にみるような実用的な学問を重視する姿勢は
後から付け加わったものである。

そういった意味で,
本質的に学校は,
日常生活と隔絶した異空間を形成する。

学校の教室空間は,不思議なことに,
現実社会のなかにありながら,
未来の社会の縮図なのである。

そこにいる子どもたちが,
未来において社会の形成者となる。

教師は,
未来の社会と直接に触れ合っていることを忘れてはいけない。

それゆえ,
未来の社会はこうなるはずだといった浅薄な類推に基づいて
学校教育を構成することには慎重でなければならない。

未来は,あくまでも未知である。
未来社会がどんなものであろうとも,
そこでよりよく生きていくためには何が必要なのか,
そういった視点から,学校教育を構成すべきであろう。

世の中には,現実には争いが絶えないが,
未来において争いがなくなることを祈りつつ,
争いのないクラス作りをめざし,
世の中には,気の合う,気の合わないがあることは十分知りつつも,
未来において誰もが仲の良い社会がくることを祈りつつ,
誰とでも仲よくするように教師は説くのである。

学校は,子どもが日常性を離れ,
日常生活において背負っているさまざまな重荷を
安心しておろすことのできる空間であり続けたいものである。


批判ということ

2008-07-01 | 教育
最近,教育ブログのコメント欄におけるマナーが
急速に悪化しているのを感じている。

当ブログにコメントをくださる方々は,
エントリーに対して肯定的なものにしろ,否定的なものにしろ,
ほとんどすべての方が礼節を尽くしてコメントをくださっている。
感謝して拝読させていただいている。
当ブログのようなつまらないブログに
貴重な時間を割いてコメントを下さる方がいらっしゃることは
たいへんありがたいことである。

しかし,近頃,「批判」という言葉の意味を
よくご存知でないと思われる方が時折訪れるようになった。
誠に残念である。


ブログにおける批判についての私の考え方を表明しておくことも
あながち意味のないことではないのではないかと
考えるに至った。

私は次のように考えている。

1. エントリーに対する批判は,
  あくまでそのエントリーのコメント欄で行われるべきで,
  その内容を断りもなく,
  他の場所に展開することはアンフェアである。

2.エントリーに対する批判は,
  そのエントリーが用いている事実認定の過ちや
  論理展開の不整合やあいまいさ等について
  直接的かつ的確に行われるべきものである。
  批判するためには,エントリーの論旨を正確に理解する必要がある。

3. エントリーに対する批判において,
  エントリーの著者が用いていない論点を提示して
  エントリーの内容に対して反対表明することは,
  批判ではなく,異なった視点からの新たな主張である。
  これは,コメントではなく,
  トラックバックを用いるべきである。

4.エントリーの内容や著者に対する挑発,攻撃,
  憶測に基づく誹謗等は厳に慎むべきである。

匿名でやり取りしている以上,
これらのマナーは最低限守られるべきである。

教育界でも批判的思考力やリテラシーの重視を言われるようになったが,
教員が多く集う教育ブログにおける批判的コメントのレベルから見て
批判的思考力やリテラシーの教育は困難を極めるであろうと思われてくる。