学校教育を考える

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筋違いな文法訳読法批判

2021-02-12 | 教育

私は英語教育の専門家ではないが、どうも気になることがある。よく文法訳読法を批判する文脈で、この方法は西欧の古典ギリシア語、ラテン語の教育法に由来し、音声は重視されず、ただ、語彙の知識と文法を頼りに母語に訳せればよしとする教育法というような言い方をしているものをよく見かける。

これは大間違いである。

本来、文法訳読法は、テキストを正確に読むことから始まる。この場合の「読む」は音読である。確かに古典ギリシア語やラテン語が古代人によってどう発音されていたかについては、完全に解明されているわけではない。それこぞ膨大な研究成果があり、時代によって、あるいは教育者の考えによって発音の流儀は変わる。しかし、正確に発音することは極めて重要な学習要素であった。文法訳読を行う教師は、まず自らが流暢に範読でき、そして、学習者の発する音声を矯正する力を持っていることが最低条件である。さらに、古典語に取り組むにあたって、語彙と文法がわかれば訳せると思っているとすると、これも大きな誤解である。古典語に向き合うにあたっては、当然、語彙と文法の正確な知識が必要なのはいうまでもないが、それだけでは歯が立たない。さまざまな古典作品において、どのような表現がなされているか、その類例が思い浮かび、さらに現代語に訳すにあたって、いかなる表現に落とし込むのが最も蓋然性が高いのかを悩みながら判断する高度な知的作業を要求されるのである。当然のことながら、複数の辞書や文法書、スコリア、コメンタリーなどをひっくり返しひっくり返し、机の周りに本をうず高く積み上げながら、訳を絞り出す作業なのである。

英語教育の専門家が、冒頭のように、いとも簡単に文法訳読法を批判し、しりぞける物言いを見るにつけ、ああ、この人は、文法訳読法が本来どのようなものであるかを知らないばかりか、言語というものがいかに恐ろしいものかが分かっていないなあ、と思うのである。

英語とは言語的に全く遠い位置にある日本語を母語とする我々が、学習法をどうしたからどうなるというような生半可なことで、英語を身につけることができるはずがないのである。斎藤秀三郎や田中菊雄や佐々木高政の辞書や参考書を少しでも見れば、彼らの英語を身につけるための努力のすさまじさに畏怖の念を抱くだろう。

小学校から英語を始めようが幼児期から英語を始めようが、そんなことぐらいで英語が身につくはずがないし、学校の授業を受けているだけで語学が身につくはずがない。

言葉を身につけるためには、学習者自らが膨大な時間をかけ、とてつもない労苦を重ねる必要がある。少なくとも、文法訳読法はそのことを教えてくれるのである。