「だれとでも仲良くしよう」
「みんなで明るいクラスにしよう」
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」
義務教育段階の学校において
いわゆる学級の目標として掲げられる価値観の多くは,
共同体的価値を追求している。
みんなが手を取り合って,幸せな社会を築いていきましょうという
一種の「共生」の理想が表現されているわけである。
学びの場面で,この理想を追求するとすれば,
「学びあい」ということになる。
当然,学級の成員には能力差があるわけだが,
その能力差があることは前提であるとしても,
能力がどうであるかにかかわらず,
みんな一緒に伸びていこうというのが,
「学びあい」である。
例えば,
理解できた者が理解できない者に教えるという学習場面を設ける方法であり,
あるいは,
誰もが解決できない問題に対して,
協力し,知恵を出し合って解決していくという学習場面を設ける方法である。
「学びあい」のためには,
多様な能力や考えの持ち主が混在していることが望ましく,
自分と他者との違いを意識し,認め合うことにこそその意味がある。
「学びあい」の発想は,
能力別クラス編成などの発想の対極にある。
能力別クラス編成は,ある特定の能力の差によって集団を分断することにつながり,
多様な能力や個性をもった集団のダイナミズムを減衰させてしまうおそれがある。
競争云々をいうよりも,
「共生」の価値をもっと見直したほうがよいのではないだろうか。
それが,我が国を根底で支えていた価値観のひとつであったのではなかろうか。
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「みんなで明るいクラスにしよう」
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」
義務教育段階の学校において
いわゆる学級の目標として掲げられる価値観の多くは,
共同体的価値を追求している。
みんなが手を取り合って,幸せな社会を築いていきましょうという
一種の「共生」の理想が表現されているわけである。
学びの場面で,この理想を追求するとすれば,
「学びあい」ということになる。
当然,学級の成員には能力差があるわけだが,
その能力差があることは前提であるとしても,
能力がどうであるかにかかわらず,
みんな一緒に伸びていこうというのが,
「学びあい」である。
例えば,
理解できた者が理解できない者に教えるという学習場面を設ける方法であり,
あるいは,
誰もが解決できない問題に対して,
協力し,知恵を出し合って解決していくという学習場面を設ける方法である。
「学びあい」のためには,
多様な能力や考えの持ち主が混在していることが望ましく,
自分と他者との違いを意識し,認め合うことにこそその意味がある。
「学びあい」の発想は,
能力別クラス編成などの発想の対極にある。
能力別クラス編成は,ある特定の能力の差によって集団を分断することにつながり,
多様な能力や個性をもった集団のダイナミズムを減衰させてしまうおそれがある。
競争云々をいうよりも,
「共生」の価値をもっと見直したほうがよいのではないだろうか。
それが,我が国を根底で支えていた価値観のひとつであったのではなかろうか。
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