学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

ブログの危険性

2008-05-31 | 教育
ブログを取り巻く環境が急速に悪化していることを感じる。
ブログではこれまで,
自由な発言と礼節を守った会話が行われてきたが,
どうもその環境が各所で崩れつつあるのを感じている。

とくに教員がブログを公開する時には注意が必要である。
守秘義務,信用失墜行為の禁止など,
職務上の義務に今まで以上に十分留意する必要がある。
多くのブログが攻撃にさらされつつある。

最近,当ブログに対して,
具体例を示せとか,
抽象的な言説で実体がないとか,
机上の空論であるとかいった批判が寄せられるようになった。

私は教員である。
教師として守るべき義務がある。
決してそれらを犯すことはしないというのが,
私がブログを始めた当初からの誓いである。

ゆえに,
当ブログでは今後も決して教育現場の具体例を示すことはない。

常に言説は抽象的であることを心がけている。

私の意見に反対の方が,
コメントで反論を寄せられることはたいへんありがたいことである。
謙虚に拝読させていただき,自らを省みる材料とさせていただいている。

しかし,私はブログ上で議論することを好まない。
それゆえ,コメントにおいて議論を誘導する質問は避けていただきたい。
議論が深まってくると,具体的な話にならざるを得ないからである。

また,私が主張していることとは異なることを
あたかも私が述べたかのように表現される例も増えており,
とても迷惑している。

当ブログの内容を批判なさる場合でも,
引用は正確かつ筆者の意図を正確に反映していただけるよう
切にお願いしたい。

世の中にはさまざまな意見がある。
意見の相違は尊重されるべきである。
理解できる意見もあれば,理解できない意見もある。

ブログという場は,節度を守った自由な意見表明の場であり,
意見の優劣や正誤を云々する場ではないと
私は認識している。



一人一人を大切にする学校

2008-05-28 | 教育
教育に関する言説の中には,
その本質をよくよく考えてみる必要のあるものがある。

今日は,「一人一人を大切にする学校」という言葉を考えてみる。
この言葉は,いうまでもなく当然のことである。
一人一人の子どもは,どの子供もかけがえなく尊い。
その尊い子供たちを平等に公平に扱っていくのが学校である。

ところがここで問題が生じる。
一人一人の子どもの成長のスピードは皆異なっている。
そうすると,平等に公平に扱うとはどうすることなのだろうか。
ふたつの考え方がある。

ひとつは,
当然,遅れた子どもへの個人指導などは行うにしても,
原則としてどの子にも成長の度合いに関わりなく
平等で公平な教育を与える考え方である。

ふたつめは,
一人一人の子どもの成長のスピードに応じた教育を
それぞれ与えることこそ平等で公平であるとする考え方である。


ここで考えなければならないのは,
学校システムの問題である。
学校システムは本質的に集団教育を目的としている。
子どもを個としてではなく,
集団として扱うように,
校舎も設計されているし,
カリキュラムその他も編成しやすくなっている。

本当に個に応じた教育を行おうと思えば,
個別学習しかないのである。

集団教育であり,かつ,個別教育であることを両立させた事例を探せば,
我が国の江戸時代にその範をとることができる。
江戸時代の私塾や寺子屋はまさにこの相矛盾する両者を統合したのである。
そのかわり近代学校システムとはかなり異なっている。

私塾,寺子屋は,入学卒業時期がまちまちで,年齢もまちまちである。
進む者はどんどん進み,進まない者は進まない。
各自に応じた課題が与えられている。
ちょうど,現在の書道塾などのイメージである。

ところが,近代以降の学校システムには,
完全に個に応じるだけの自由がない。
近現代の学校において,
子どもの成長のスピードを完全に尊重することは,
さまざまな先達の苦闘にもかかわらず,
本当は難しいのではないだろうか。

結局のところ,
さきほどあげた後者の意味での
一人一人を大切にする学校は,
近代学校システムの中では,
中途半端なものに終らざるを得ないのである。

むしろ,近代以降の視座から見れば,制度としては未成熟な
江戸時代の教育システムに範をとるしかないのではなかろうか。

だれを出場させるか

2008-05-27 | 教育
私があるクラブ活動の顧問をしていたときのことである。

大変熱心に毎日練習をするが,
技能面で弱い生徒がいた。
いくら練習してもなかなかうまくならないのである。
いつもこつこつ地道に練習に励み,
人の嫌がる仕事も率先してやる。

一方,練習はよくさぼるが,
技能においては極めて優れている生徒がいた。
おそらく天性や素質に恵まれていたのであろう。
しかし,地味な練習や嫌な仕事はやらない。

引退前最後の大切な試合があって,
そのときは,
どちらか一方の出場枠しかなかった。

学校が勝利を得るためには,
技能の優れた者を出場させる必要がある。
それは誰の目にも明らかであった。

いつもは,
試合に誰を出すかは,
生徒の自主的な決定に任せていた。

しかし,そのときだけは,
私の指示で,
上手でない子どもの方を出場させた。

その子にとっては,
初めて正選手として出場することのできた試合である。
その結果,負けた。

学校のクラブ活動においては,
試合に勝つこと以上に大切なことがある。

私はいつもそう教えてきた。

フェアプレイの精神,
相手のプレイを讃える気持ち,
勝つことよりもよいプレイをすることが大事である。

よき敗者であることのいかに難しいことか,
それを常々痛感した日々であった。

いまもあのときの判断は間違っていなかったと思っている。




正確さということ

2008-05-24 | 教育
正確さということは大切なことである。

人の書いた文章というものは,
どんな文章でも,
その人の思いが込められている。

文章を読むときはその意図をできるだけ
虚心に読み取ろうとするのが礼儀である。

その意図がわからないときには,
その文章について論ずるべきではない。

自分はこのように読み取ったが,
それで間違いはないであろうかということを
振り返る謙虚さをもちたいものである。

他人の文章について論評する場合,
文章の引用,引証は,極力正確に行うべきである。
そして,部分的にでもあれ,
他人の文章を引用,引証する場合には,
そのつど出典を明記すべきことは言うまでもない。

その人が使ってもいない表現を
あたかもその人が使ったかのように書くのは,
不公正である。

本ブログも,
引用が各所で行われ,
あるいは出典が明記されず,
あるいは本来の意図とは
異なる表現をもって語られることが多くなった。

困ったものである。

「競争」ということ

2008-05-24 | 教育
「競争」ということについて,
さまざまな感覚があることが分かってきた。

おそらくは,
世代間の違いをも反映しているのであろうが,
「競争」に肯定的な価値をおき,
自己の努力や自己研鑽といった目的を
競争に重ね合わせ,競争が目的と同化している考え方と,
「競争」にはあまり価値をおかず,
むしろ競争は手段にすぎず,
自己の努力や自己研鑽は,
教養であったり,
修養であったり,
人格の完成であったりといった
他の価値に繋がっていると考える考え方とがあるようである。

受験勉強で考えてみるとよく分かる。
入試に受かることが目的であり,
そのための合理的な捷径を進むべきだと考える考え方と
入試に受かることは結果であり,
迂遠であっても真の教養なり人格なりを
勉学を通じて身につけようとする考え方の違いである。

かつての古い高等学校は,
旧制中学の流れを汲み,
受験に対しては超然とした態度をとることが多かった。
受験を目的化することを拒んでいたのである。

『和文英訳の修業』とか
『古文研究法』とかいった
本格派と呼ばれた参考書の趣をみると,
著者が受験を通じて
大学レベルでも十分通用する教養や知識を
読者に与えようとしていることが分かる。
受験勉強が,受験競争を超越しているのである。

それに比べれば近頃の参考書は受験を目的化し,
いかに少ない努力で合格を勝ち取るかに
焦点をあてたものが多くなった。

もちろん,
昔からそのような省力化のすすめをする参考書はあったが,
それらを使うことはむしろ恥ずかしいことであった。

激しい競争のさなかにあって,
競争を軽視する感覚が
かつては確かにあったのである。

それは,青年の気負いにすぎなかったかもしれないが,
競争に心をすりへらさないためには,
大切なことであったと今になって思う。


教師を競わせるな

2008-05-18 | 教育
教育現場に競争原理を導入すれば,
教育がよくなるというようながさつな理屈が
どうしてまかり通ってしまうのだろうか。

競争する人間の目的は,
競争に勝つことであろう。

勝ちたいという気持ちは,
結局利己的なものである。

利潤追求とか,
自己実現といったものも
同じように,
結局は利己的なものである。

「夢をもち,夢を実現しましょう」などというのも,
つまるところ利己主義のすすめである。

話はそれたが,
教師を競争させることは,
教師に対して利己主義者になれというに等しい。

教師というものの本質は,
忘己利他にある。

「すべては子どものために」,
これが,
まともな教師すべてに共通の思いであろう。

勝ち負けなど関係ないのである。

自分のことは後にして,
子どものために尽くす,
この教師の心が,
教育を根本を支えてきたのである。

教師を競争にかりたてれば,
この教育の根本が崩れていく。

こんなあたりまえのことに,
気づきもしないのは,
教育に真剣に取り組んだことのない証拠である。


まねることは大切です

2008-05-10 | 教育
よく我が国の教育では,
批判的思考力が
十分に育成されていないという論調があるが,
思考力はともかくも,
否定的に批判する精神だけは
十分に育っているように思われる。

高校生ぐらいになると,
教師が教えてきたことを
忠実に守り続ける愚直さをもった者など
なかなか見当たらないような気がする。
よくよく話をしたり観察したりしてみると,
どこかで自分なりに否定的に解釈をして
本来の意味をねじまげてしまうことが多い。

ためしに,授業中にノートのとり方の形式でも
指導してみるとよい。

線をひっぱって欄を分けるというような単純なことでよい。

そのように書かれた優れたノートの実例を指し示し,
具体的にそれを生徒に話したとして,
そのやり方を忠実にまねる生徒が何人いるだろうか。

(余談だが,アメリカの The Cornell Note-Taking System は,
 なかなかよさそうである)

なにかと理屈をつけて,
その通りにやらない生徒が多いのではないか。

一事が万事であって,
かつて子どもに対してよく言われた
「だまされたつもりでやってみる」気持ちが
今の生徒には乏しいのではないか。

批判的思考力の育成を云々する前に,
指し示された方法を
素直にまねることのできないことが
学力や生活態度に及ぼす影響を
考え直してみるべきではないだろうか。




一所懸命やったのにだめだったとき

2008-05-09 | 教育
子どもが,何かに取り組んで,
一所懸命やったのにだめだったとき,
どのように声をかけるだろうか。

「一所懸命やったのに残念だったね」というように,
一所懸命やったことを讃えてなぐさめるというのが,
人情でもあろう。

しかし,
「だめだった」ことにもきちんと目を向けさせるのが
本当の愛情ではないだろうか。

「だめだった」ことを事実として
しっかり認識させた上でなければ,
一所懸命やったことを讃えてはいけないのではないか。

だめだったことには,
さまざまな理由があるであろう。
その理由を見つめることを避けては,
子どもが成長することはない。

一所懸命やったことで,
だめだったことを帳消しにはできないのである。

もし,
子どもが「一所懸命やったのに」というような言い方で,
自己の努力を正当化する癖をつけてしまうことしたら,
それは,とてもこわいことである。

「だめだったことは悔しいだろうが,
 その理由をきちんと考え直しなさい,
 しかし,一所懸命やったのだから胸をはっていなさい」
というのが,厳しいが,大人が子どもに対して
とるべき態度であろうと思われる。

いかがだろうか。

どんな人がよい人か

2008-05-09 | 教育
問い方はいろいろあるろうが,
「どんな人がよい人といえるか」
「人としていちばん大切なことは何か」
「子どもにどんなひとになってほしいと思うか」
とかいった問いに対して,なんと答えるであろうか。

今の高校生から大学生ぐらいの人たちが
あげることとして際立って多いのが,
「思いやり」とか「やさしさ」である。

そして,ほとんどでてこないのが,
「正しさ」「まじめさ」「勤勉」
「勇気」「謙虚」などである。

このような問いに対する答えには,
世代間に違いがあるように思われる。

「思いやり」や「やさしさ」が
いの一番にあげられるようになったのは,
一体いつごろからだったろうか。

古い世代としては,
そのことで抜け落ちてしまう倫理観や道徳観が
あるような気がしてならないのだが。


教育に実験は可能か

2008-05-05 | 教育
世の中には,
実験校と呼ばれる学校が存在しており,
さらに公立私立の学校でも,
研究開発の指定を受けて
実験に従事することがある。

しかし,そもそも,
教育において,
「実験」などということが可能なのであろうか。

このブログで再三述べていることだが,
どんな教育方法にもメリットとデメリットがある。

どんな教育方法の「実験」をしても,
成果があがったという報告書は書けるし,
成果があがらないという報告書も書ける。

予算がついて,
成果が全くなかったというわけにもいくまい。

また,
ある学校で,本当に際立った成果が見られたとしても,
他の学校で同じことをやって成果が見られるわけではない。
「実験」と言いながら,普遍性がないのである。

にもかかわらず,
それだけ条件が整っていれば,
それは成果があがるでしょうというような
「実験」の成果をもとに
全国の教育が左右されるとすれば,
その被害は甚大である。

教師が日常的に教室で試行錯誤することには
意味があるとしても,
いわゆる大規模な「実験」などには,
本当は意味がないのではないか。

そればかりか,
教育現場で,
「実験」を行うことそのもののデメリットは
計り知れない。

「実験」に費やされる時間と手間は,
本来ならば,子どもたちが享受すべき
教師の教育活動の時間を削って捻出されざるを得ない。

多くの良心的な教師が,
研究開発などを負担に感じるのはそのためである。
子どもと接する時間が明らかに削られるからである。

そして,研究開発の結果が必ずしも
その学校をよくしたり,
他の学校によい影響をもたらしたりするという
実感がもてるわけでもない。

その「実験」を行ったことを
「業績」としてカウントしたい者だけに
メリットがあるに過ぎない。

研究開発や実験校の意味そのものを
もう一度問い直す必要があるのではないか。


わかっていないことは教えられない

2008-05-03 | 教育
教師自身が,
よくわかっていないこと,
よく知らないことは,
どんなに指導技術を磨いても
教えられないのです。

教師自身が,
自分が児童・生徒・学生だった時代に
理解できなかったことを,
教師になって教えようとするならば,
よっぽど真剣に時間をかけて勉強しなおさないと
教えられるわけがないのです。

教師は,
わかっているふりをして教えがちです。
そんなやり方に慣れてしまうと,
子どもがわからないのは,
なんでもかんでも
子どものせいだということにしてしまいがちです。
そればかりか,
生半可な勉強でわかったふりをして教えていると,
とんでもない嘘を本当だと信じ込んで
教えてしまうこともよくあります。

教師の責任は重大です。



よい授業の条件

2008-05-03 | 教育
よい授業の条件として考えられていることを
問い直す必要があるのではないか。

教科書を使わず独自の教材を開発して行う授業,
教師が自らの確固たる教育観に基づいて行う授業,
教師が表立って指導を行わず,子どもが自主的に進めていく授業,

これらの授業を,
教育研究者も実践者も,
よい授業と評価しがちである。

しかし,これらの授業は独善的に過ぎるのではないか。
それらの授業をよい授業と判断することそのものに,
すでにバイアスがかかっているのではないか。


教科書の記述にあくまでも忠実な授業,
教師自らの教育観にこだわらず学習指導要領の考え方に忠実な授業,
教師があくまでもイニシアチブを取って運営する授業,

まじめで良心的な教師ならば,
このような授業を行うのではないか。
なぜ,このような授業を評価しようとしないのか。

我が国の教育論議が不毛に終わるのは,
特殊で独善的な事例をもてはやし,
大多数の教師の実践を
きちんと見つめようとしないところから
くるのではないだろうか。