学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

事業仕分けにあきれる

2009-11-28 | 教育
文部科学省関係,
とくに学校教育にかかわる事業仕分けの様子を見ていて,
ほとほと馬鹿馬鹿しくなってきた。

仕分け人の独断的な見解もさることながら,
受けて立つ官僚の答弁もなさけない。

そもそも,施策に対する予算についての議論なのだから,
その資金活用の有効性について限定的に議論すべきなのに,
その施策そのものの価値にまで立ち入る仕分け人もいる。
逆に,当事者がその施策の価値について語ろうとすると,
さえぎっておきながら,仕分け人の発言はさえぎられない。
司会進行にあたる国会議員の能力もあの程度だから
まあ,やむを得ないのであろう。

もともと国民の代表でもない,
様々な利害を背負った民間人に
国家予算を云々させ,
それをもとに予算縮減をはかろうとすることが,
果たして民主主義国家で許されるべきことなのか,
疑問に思う。

この程度の素人議論で,云々され,
廃止されたり,縮減されたりできるような諸施策に,
我々現場の教員は,真面目に取り組み,
右往左往させられているのだと思うと,
本当にやりきれない。

学校教育破綻の原因

2009-11-09 | 教育
 学校教育が破綻していくのは,実は,常識的によく考えれば,不可能であることやおかしいということが分かりきっているような空想上の摩訶不思議な理想を追求するからである。
 例えば,教師が教えないで子どもに考えさせるのがよい教育だとか(教えなければ考えることなどできない),一人ひとりの個性を尊重する教育がよいとか(教師が子どもの個性を認めることはできても,学校はそれらに応じた教育ができるほど人的物的資源に恵まれていない),これからの教育は指導ではなく支援だとか(指導しなければ,どこに行くかわからない),教師の提示する課題や宿題をやってこなくても良い成績がつくだとか(そのような状況下で課題や宿題をきちんとやる子どもは聖人君子である),学級崩壊状態の教室で,子どもには何のおとがめもなく,逆に教師の責任が問われるだとか(たたかれるのは,たたいたほうではなく,たたかれたほうが悪いという理屈である)といったことである。
 近代の学校,特に義務教育学校は,最もコストをかけずに多くの子どもに必要最低限の教育をほどこすように考えて作られている。そこでは,もっともシンプルで誰にでも分かりやすい論理が貫かれていないと崩壊してしまう。複雑で高度な思考操作をしなければ理解できないような,いや,理解しないほうがよいような,教育学的理論(?)を学校にあてはめても必ず破綻する。次から次へと不可思議なキーワードや理屈を学校現場に持ち込んでくる教育学者たちや,それに追随する教師たちは,一体何を意図しているのやら,心の底を覗いてみたいものである。
 新学習指導要領のキーワードとされている「習得」「活用」「探究」にしても,とりあえず,学校は「習得」をめざすことぐらいで精一杯である。「活用」「探究」を追いかけつづければ「習得」もおぼつかなくなる場合が多いのが,多くの学校の実情だろう。「生きる力」をめざすなどというのも変な理屈である。学校ごときが「生きる」ことにどれほどの影響力を持ち得るというのか。そんな理想をいうよりも,「学校は勉強をするところです。学校に行ったら,先生のいうことをよく聞いてしっかり勉強しましょう」と言ってくれれば十分である。
 最近はやりの「思考力」「判断力」や「表現力」,「言語能力」にしても,先生の言うとおりにしっかり勉強する子どもは,あれこれ言わなくても,きちんと身につけていくものである。先生や仲間と正しい言葉遣いで丁寧に話ができる子どもは,表現力や言語能力も身についていくのである。
 要するに,何も新しいことなど必要ないのである。礼儀正しく,素直で,よく人の話を聞く子ども,受験などという矮小な目的のためではなく,自らがなすべきこととして,しっかり勉強をする子どもを育てようとすることが,いくら時代が変わろうとも,学校ができる最大限のことであろう。

学校は古い組織である

2009-11-03 | 教育
 学校の教員の資質向上というような話になると,「実社会の経験がある者を採用せよ」とか,「民間企業での経験のある者を採用せよ」などという主張がまま見られるが,そのような方法はほとんど意味がない。
 ひところは,盛んに民間人校長の登用などということをやったものだが,それで学校がよくなったという話はあまり聞かない(成果があがったかのように宣伝することに成功した例はあるが)。
 考えてみればわかることだが,学校という組織はずいぶんと古い組織である。現在の民間企業などに比べるとはるかに歴史が長い。日本の学校の歴史をたどれば,明治,江戸時代まで歴史をさかのぼれる学校がたくさんある。西洋の学校であれば,その歴史は中世まで遡ることができるものがまれではない。民間企業は,確かに古いものもあるが,学校に比べれば,はるかに若い組織が多い。
 古い組織は,組織構造が変わりにくいという特徴をもっているが,それは歴史の風説に耐えてきた知恵でもある。学校には危機は何度も訪れたが,最も優れた危機への対処法は,じたばたしないで,じっと危機が去る時が来るのを待つという方法である。
 学校は,経験豊かな老人というわけである。それに比べると,現在,脚光を浴びている民間企業は若いものが多い。老人からみれば,現在の隆盛は僥倖といってもよいものである。自信満々の若者にすぎない。栄えた者はやがて衰えるということを知らぬのは,若さである。このような若者の忠告を老人が聞くであろうか。せいぜい「世の中はそれほど単純なものではない」と諭されるのがおちであろう。
 ともあれ,今,学校は危機ではない。戦火激しく,通常の学校教育が難しくなっていた頃に若き日を過ごされた戦中世代の方にお聞きしたことだが,「戦後,我々は学力なし世代と呼ばれた」とおっしゃっておられた。それに比べれば,現在の学力低下など笑止千万である。
 学校が,たいした危機でもないのに,様々な危機に見舞われるはめになるのは,周囲が危機でないものを危機として,おびえたり,あわてたり,けなしにかかったりするからである。当たり前のことを当たり前にすることを学校に認めてやれば,学校に危機は訪れない。授業を聞かないのは,聞かないほうが悪い。宿題をやってこないのは,宿題をやらないほうが悪い。学校に来ない者は卒業できない。そんな当たり前のことをねじまげるから,わけがわからなくなるのである。授業を聞かないのは授業をするほうに原因があるだの,宿題をやってこないのは宿題の出し方が悪いだの,学校に来ないのに卒業させろだのといった論理がまかり通るから,学校が危機にさいなまれ,真面目な教員が病むのである。
 とくに学校の管理職は,配下の教員を守り,毅然として正論を通し,老成した学校教育を推進してもらいたいものである。