学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教科書を考える

2008-10-27 | 教育
教科書をもっと分厚く,
じっくり読むに耐える教科書にできないだろうか。
教科書一冊あれば,副読本などを買い与える必要なく,
一通りの学習資料が一覧できる教科書にならないだろうか。
どんな資質の教師が教えても,教科書さえ読んでいれば,
一定の学習成果が期待できる教科書にならないだろうか。

今の教科書は,特に義務教育の場合,
教科書無償の原則があるためか,
あまりコストのかかったものはつくれないのであろうが,
今の教科書を一冊の書物としてみることができるだろうか。
教科書にかけられている労力のわりには,
量的にも内容的にも
あまりにも薄っぺらなのである。
書物というよりは感覚的には雑誌に近い。
アニメのキャラクターを載せるにいたっては,
あきれてものが言えないのである。

教科書一冊あれば,子どもが何時間でも飽きずに
眺めていられるような,そんな魅力的な教科書は
できないものだろうか。

教職免許の更新制や全国学力調査にかかる費用を
教科書の充実につぎこめば,
相当魅力的な教科書が生まれるはずである。
そのほうがよっぽど,
教育改善には実効があるように思われるのだが。

『ちいちゃんのかげおくり』を考える

2008-10-26 | 教育
『ちいちゃんのかげおくり』という作品が,
小学校3年生の国語教科書(光村)に載っている。

下手に要約するのもはばかられるので,
ご興味のある方は,お読みいただきたい。

この教材は,
小学生が戦争について考える最初の教材と
なっている。

一読,涙をさそう情趣あふれる物語であるが,
小学校3年生に与える教材として考えた場合,
非常に扱いが難しい作品なのではないかと
考えている。

その理由は,大きく分けて,以下の3点である。

ひとつは,空襲から逃げているうちに,
お母さんとお兄さんとはぐれてしまったちいちゃんを,
どこかのおじいちゃんが助けて逃げてくれたり,
はす向かいのおばさんが,ちいちゃんを,
もとの家のあった場所までつれてきてくれたりする,
にもかかわらず,はす向かいのおばさんは,
ちいちゃんを残してその場を去り,
ちいちゃんは,人知れず死んでしまうのである。
ちいちゃんは,戦争のために死んだのではなく,
実は,周囲の大人の助けを得られなかったために
死んでしまったと解釈できてしまう。
物語は,戦争直後の戦災孤児が町にあふれた時代ではなく,
戦中のことである。
ちいちゃんの存在を大人は知らなかったわけではなく,
少なくとも,はす向かいのおばさんは知っていたわけである。
小さな子どもが,お母さんはここに帰ってくると言ったとしても,
空襲直後のそのような子どもの言葉を,大人が真に受けるとは
考えにくい。
そう考えると,ちいちゃんの死は,
非常に難しい問題をはらんでしまうことになる。

ふたつめは,最後のかげおくりの問題である。
ちいちゃんは,なくなる直前,
ひとりでかげおくりをしたと解釈できる表現で書かれているが,
現実的に考えて,
その時点でかげおくりはできないように思う。
体力的にも無理であろうし,
こわれかけた防空壕のなかではもちろんのこと,
おそらくは瓦礫が散乱しているであろう防空壕の外でも
かげおくりは難しいのではないか。
そうすると,最後のかげおくりはすべて,
幻のかげおくりであったと解釈せざるを得ない。
したがって,ちいちゃんがいつなくなったのかを
特定することは困難なのである。

みっつめの問題は,宗教性に関するものである。
この作品の最後のほうでは,
この世とあの世が交錯した状態で書かれている。
これは,極めて宗教的な要素を伴うシーンであって,
これを小学校3年生に読み取らせるというのは,
ある意味で非常に問題があるように思われる。
子どもたちから「ちいちゃんは幸せだ」という感想が出てきて
当然なのである。
この世で得られない幸せを,
あの世(天国)で得られたのだから
幸せだという感想をもつことの可能な教材を
小学校中学年段階で扱ってよいものであろうか。

この作品は,たいへん優れた作品である。

しかし,この作品の持つさまざまな要素を考えると,
この作品を客観的に捉えることのできるのは,
中学生以上ではないかと考える。



リテラシーの難しさ

2008-10-26 | 教育
文章を読むときに,
必ず人は,無意識のうちに,
自分の経験や思考と照らし合わせながら
読んでいる。

したがって,自分の経験や思考の範囲を
超えた文章は,本当には理解できないのである。

そのような場合,
理解できないことを理解しようとするために,
自分が理解できるように,
書かれた文章を変形させてしまうことがある。

つまり,書かれていないことを書かれているかのように,
書かれていることを書かれていないかのように
思い込んでしまうのである。

ここに,文章を読むことの難しさがある。

リテラシーの第一歩は,
書かれていることを書かれているままに
理解しようとすることである。
理解できない文章は,
無理に理解しようとしないことである。

最も危険なのは,
書かれていることの範囲を超えて
書かれていることを変形し,
理解したつもりになることである。

当ブログに関して,
公務員批判を展開される方がおられるが,
公務員の方々に対して,たいへんお気の毒である。
私は自分が公務員だとはどこでも言っていない。
書かれていないことを書かれていることと誤認した
全くの誤解である。

教師の愛

2008-10-21 | 教育
教師が愛情をもって懸命に子どもに接すれば,
子どもはその愛情に応えてよりよく成長するのだと
どこかで教師は思っていて,
そのことが教師を苦しめる。

しかし,実は教師が愛情をもって一所懸命子どもと向き合っても
子どもはその愛情に応えるとは限らないのである。

このことは冷静に考えればすぐわかる。
自分が嫌いな,あるいはなんとも思っていない相手から,
一所懸命に愛情を注がれたとしても,
それは迷惑なだけであって,
愛情どころか嫌悪感が募ることさえあるだろう。

それと全く同じである。

だから,教師が愛情を注げば,
いろいろな教室の問題が解決し,
教室に問題があるのは,
教師の愛情や取り組みの真剣さが足りないからだとする論調は,
はなはだもって浅薄であると言わざるを得ない。

例えば,教室の秩序を乱し,
他の者の学習権を侵害するような子どもは,
理由の如何を問わず,
その教室に居させることはできないのであり,
そのような子どもに対応する
通常の教室とは別の教育環境を整備しなければならないと考えるのが
合理的であって,最も問題解決の近道だと思うのだが,
そのように発想しないで,
教師の取り組みのあり様にのみ問題があるかのような議論は,
はなはだ不合理であるし,暴力的ですらある。

教師の愛ということを度外視して,
問題解決の方策を考えなければ,
教育問題は解決しない。

教師の愛とは,
どんな子どもにも平等に注がれるべきもので,
決して見返りが期待できないものである。
したがって,愛情を注いだことで子どもによい効果があるとは限らず,
愛情を注ぐことで問題は解決しないと心得たほうがよい。
問題解決は,このような情とは別の合理的手段によるべきである。

この世の中では決して報われることのない
愛情を注ぎ続ける仕事であるという意味,
教師とはそのような悲しい職業であるという
その一点において,教師は聖職である。

いきいきと生きる

2008-10-09 | 教育
教師をやっている人は
子どもが好きだとか,
教えるのが好きだとか,
学校が好きだとか,
ある教科の勉強が好きだとか,
校種によって若干の差異はあるであろうが,
だいたいにおいて,
このようなシンプルな理由で教師になったと思う。
いわゆるデモシカ教師であっても,
やはり子どもだとか,学校だとか,勉強だとか,
そういったものに興味が全くなければ,
教師になどならなかったであろう。

そうだとすれば,
もっともシンプルで有効な教育改革は,
このような教師の自然な気持ちを
十分に生かせるような環境を整えることである。

個々の教師の「よさ」を
それぞれに生かして,
いきいきと教育できる環境を整えることである。

ところが,現在の教育界では,
教師の「悪さ」や「いたらなさ」ばかりに
着目しているように思われてならない。

いや,教師に対してばかりではなく,
世の中全体がそうなのかもしれないが,
こと教育に関して言えば,
教師の精神状態は,
子どもの教育に多大な影響を及ぼす。

教師がいきいきと生きることができれば,
いきいきとした教育が可能になるであろう。

痛くないからね

2008-10-07 | 教育
例えば,
子どもをお医者さんに連れていくとき,
それも,注射を受けさせるとか,
何か痛みを伴うであろう治療をしてもらいにいく場合,
親は「痛くないからね」と
子どもに言うことが多いのではないだろうか。

でも,もし子どもがその注射や治療で痛みを感じたら,
親が子に嘘を言ったことになる。

親も,
おそらく痛いであろうということがわかっていながら,
「痛くないからね」というのである。
これは,嘘でなければ,一時の気休めに過ぎない。

こんなとき,
「痛いからね。でも,あなたなら我慢できる」と
いうのが正直であろう。

これを学校教育にあてはめてみると,
「痛くないからね」は
「学校は楽しいところだよ」というのと同じ,
「痛いからね。でも,あなたなら我慢できる」は,
「学校では楽しいことばかりじゃなく,
 辛いこともある。でも,あなたなら
 乗り越えられる」というのと同じである。

私は,やはり後者のほうが誠実であると思う。
「学校は楽しいところだよ」というのを,
とくに小さな子どもに対して強調しすぎるのは
やはり問題なのではないかと思っている。


できなかったことができるようになる

2008-10-04 | 教育
できなかったことができるようになる,
一言で言えば,勉強する意味は
そこにあるのではないか。

読めなかったものが読めるようになる。
聞けなかったものが聞けるようになる。
話せなかったことが話せるようになる。
見えなかったものが見えるようになる。
書けなかったことが書けるようになる。
などなど,
できなかったことができるようになる,
そのためにするのが勉強である。

だから勉強は,
読めないものを読み,
聞けないものを聞き,
話せないことを話,
見えないものを見,
書けないことを書くことを
地道に繰り返す営みなのである。
その努力は,苦痛以外の何ものでもない。

その苦痛の果てに,
できないことができるようになり,
自分の世界が広がる喜びが,
はるか遠くに待っているのである。

最初から楽しい勉強など,勉強ではない。
最初からわかる勉強など,勉強ではない。

そのことを忘れ,
苦痛を和らげてやることばかりに意を用いていれば,
できないことはいつまでたっても,
できるようにはならない。

勉強の意味を,いま一度考え直してみたい。

学校はユートピア

2008-10-01 | 教育
学校はユートピアである。

知徳体の健全な成長をめざし,
だれもが仲良く明るい生活を送る場所,
それが学校である。

学校に集う子どもたちのつくる社会が,
未来社会の縮図であってみれば,
学校の掲げる目標や
学校教育がめざすべきであるとされている方向性が,
理想社会を思わせるものであることは
当然のことである。

しかし,
一方で大人は気づいていなければならない。
ユートピアが,理想郷であると同時に,
その文字通りの意味,ΟΥ ΤΟΠΟΣ(no where),
つまり,どこにもない場所であることに。

論理的思考の難しさ

2008-10-01 | 教育
論理的思考というのは,
簡単に言えば,
筋道を立てて考えることである。

いっぽんの筋がすうっと通っていることが
論理的思考の最低限の条件である。

ところが,この筋が通っているということが
どういうことか理解できない者には,
論理的であるということ自体が
どういうことか理解できない。

したがって,論理的ではないのに,
論理的であると思い込んでいる者に,
論理的思考とはどのようなものかを
理解させることは
おそらく相当に困難なことなのである。

学校で学ぶ教科学習のほとんどは
この論理性に支えられている。
教科の学習をこつこつやっておれば,
論理的であるとはどういうことかは
本当は自然に身につくはずなのである。

ところが学習履歴のどこかで,
ボタンのかけ違いが生じると,
論理的であるべき教科の学習が,
非論理的で自分勝手な枠組みのなかで
理解されてしまうことがある。
こうなってしまうと,
何が論理的で何が論理的でないかの
判断ができなくなってしまうのである。

これをもとにもどすには,
もう一度最初から
学習をやり直すしかない。