学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

塾を考える

2010-02-28 | 教育
私の世代では,
塾に行っていない子どもがたくさんいた。
むしろ,
習字やそろばんといった学校ではさほどやらないことを,
習い事という形で習う学校外教育の場の方がさかんであった気がする。

学校の勉強はあくまでも学校が主体で,
あとは自分で予習復習をするというのがあたりまえで,
塾に行くということは,
自分でやるべきことを人に頼っているという
後ろめたさがどこかにつきまとっていたように思う。

勉強ができるできないが,
塾に行った行かないに転化されるようなことは
少なくともなかった。

地方差もあるであろうが,
高校生などでも,学校の勉強だけで,
あとは,教科書や参考書を頼りに,自分で勉強した。
浪人してはじめて,
予備校に通うというパターンが多かったように思う。

そのような世代の者から見ると,
校種を問わず入学試験に合格するためには,
塾に行かなければならないというような風潮に
親も子どもも捉われ,
しかも,その風潮に
学校も,教師も,そして文部科学省までもが,
NOをつきつけなくなってしまったことが,
果たして,
我が国の教育にとってよかったのかどうか,
いつも疑問に思っている。

アンチテーゼ

2010-02-18 | 教育
教育改革は,
これからの時代がどうなるかを想定して
行われているように見えて,
実は,今の時代しか見えていない。

いまの子どもたちが,
大人になって活躍する次代は,
21世紀の半ばである。
その時代がどのような時代か
予測可能であるわけがない。

ひとつ,アンチテーゼを提出してみよう。

小学校で必修化すべきなのは,
英語ではなく,中国語である。

学校で育成すべきなのは,
コミュニケーション能力などではなく,
ネゴシエーション能力である。

求められているのは,
創造力ではなく,持続力である。

空想的なグローバル化にまどわされるのではなく,
教育はよりドメスティックであるべきだ。

などなど。

さて,どのようにアウフヘーベンいたしましょうか?

勉強は目的であって手段ではない

2010-02-08 | 教育
学校において,勉強することは,
本来「目的」として意識されるべきものであった。
他に何らかの「目的」があって,
その「手段」として捉えられるべきものではなかった。

もちろん,「手段」としての勉強は昔からある。
受験のための勉強,試験のための勉強,資格取得のための勉強,
しかし,それらは,勉強本来の姿であるとは考えられておらず,
一種の便法といったマイナスイメージがかつてはあった。

それが,昨今では,「手段」としての勉強が,
本筋のように考えられるようになった。
学問の府である大学までもが,
資格取得やキャリア形成のための勉強を
標榜するようになったのである。
初等教育や中等教育でも,
「手段」としての勉強が大手を振っている。
大手塾が学校を凌駕するほどの権威をもつようになったのが,
その証拠である。
小学生が,「これは塾でやったから」などと嘯くのも
この発想の弊害である。

もう一度,本来の姿に立ち返るべきである。
学校の勉強は,それ自体が「目的」である。
きちんと勉強して,その内容を理解しようと努めること,
理解すべきものであるから理解する努力をすること,
それが,学校の勉強の意味である。

受験に合格するとか,資格を取得できるといったことは,
その本来の勉強の「結果」として与えられるものであって,
決して,そのことそのものが「目的」なのではない。

この「目的」と「手段」の転倒が,
学校の勉強を,ひいては,学問そのものを矮小化している。

教師の資質

2010-02-02 | 教育
教師の資質ということを考えてみる。

教師になる人は,
教師としての資質に恵まれているから
教師になったわけではない。

教師になる人は,
教師になろうと思ったからなったのである。

教師を志望する者の
教師としての資質があるかないか,
それが教員養成課程で云々されることは
よっぽどのことがない限り,ないし,
大学の教員養成課程に,
教職志願者の資質を判断する機能はそもそもない。

教員採用試験の段階で,
多少は,教師としての資質について
審査されているのかもしれないが,
もし,これがうまく機能していたのであれば,
現職教員の資質が云々されることはなかったであろう。

資質のない教師が,
研修によって,
資質の高い教師になり得るなどという話も,
はなはだ怪しい話である。

となると,全体として教師の資質を高めるためには,
資質のない教師に,教職を退いてもらうしかない。

しかし,他人の資質を判断することは容易ではない。

そうすると,
教師の資質の有無を判断するのは,
つまるところ,
その教師自身ということになる。

しかし,本当に資質のない教師は,
自らに資質がないことにすら気づかないのであるから,
結局,問題の解決にはならないのである。

ゆえに,教師の資質を高めるなどというのは,
不可能な命題,絵に描いた餅であることが分かる。

大事なのは,個々の教師の資質を高めることなどではなく,
資質の不十分さを自覚しつつ
お互いの欠点を補い合いながら
真摯に教育と向き合う,
そんな姿勢をもった教師集団をつくりあげることしか
ないのである。