学校教育を考える

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PISA型「読解力」とは何であったか

2014-05-08 | 教育
近頃はだいぶ落ち着いてきたようだが,ひところはPISA型「読解力」をいかに育成するかということが大きな教育課題として,国語教育関係者をはじめとしていろいろなところで取り沙汰されてきた。

あらためて,PISA型「読解力」とは何であったのかということを考えてみた。
文部科学省のホームページなどを見ると,PISA型「読解力」とは,「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」とされている。しかも,従来の読解力とは意味するところが大きく異なるとして,わざわざPISA型「読解力」などと名付けている。この定義はとても大仰な表現で,しかもなんだかよくわからない日本語である。この定義をみると,国語の先生達がえらいことになったと思うわけである。しかしながら,ここで立ち止まって考えてみる必要がある。このようなよくわからないテキストに接したときには,それこそ,PISA型「読解力」を発揮しなければならない。このような日本語は,翻訳によくある表現,それもこなれていない翻訳にありがちな表現であると,批判的リテラシーを駆使して判断するべきである。そして,このような表現に接したときには,必ず原文にあたるというのがリテラシーというものである。さて,その原文は,以下のとおりである。

Reading literacy is understanding, using, and reflecting on written texts, in order to achieve one’s goals, to develop one’s knowledge and potential, and to participate in society.

これを見て,英文を読み慣れている方はお分かりのことと思うが,大したことは言っていないのである。要するに,社会に出て,何かわからないことがあって,それを知ろうとするときに,なんらかの書いてあるテキスト(文章とは限らず図表なども含む)を探して読んで理解たり活用したり考えたりすると,そのわからないことがわかって,知識も増え,それが当然,その人の可能性をひろげることにもなるし,これまたあたりまえのことだが,よりよく社会参加できるようになるよ,そのようにテキストを使える力のことをリーディングリテラシーと呼ぶことにするよ,という程度のことを言っているにすぎないのではないか。つまりは,我々が,電気製品を使うときに取扱説明書を読んだり,社会情勢を新聞を読んで知ったり,株価をグラフを見て調べたり,というような力をリテラシーと呼んでいるのである。これは,もともとの意味での,「読み書きそろばん」の「読み」の部分の意味と全く同じである。

そう考えると,我が国の国語教育をことさらいじくることもなかったのである。PISAの結果が悪かったのは,おそらく生徒がそのような問題に慣れていなかったからめんくらっただけのことで,別に「読解力」が劣っていたわけではなかろう。我が国の国語における「読解力」は,このPISA型「読解力」よりもはるかに高度である。それは,情報を取り出すということにとどまらず,正確に精緻に読み,しかも,書き手の心情までも忖度するという,きわめてハイコンテクストな能力を育成することをめざしているのである。このような従来の国語教育をそのまましっかりとおこなっておけば,PISAの試験結果がどうであろうと,社会に出てから情報収集のためのいわゆるリーディングリテラシーに欠けるということはないのである。だって,新聞や取扱説明書を読めない人はほとんどいないではないか。PISAが言っているのは,このテキストにインターネットなどのメディアなどの電子テキストの活用など新しい要素を付け加えたにすぎないのだと思えるのである。

国際機関であるOECDの言ったことだから何かとても大切なことに違いない,我が国の教育が何か劣っているに違いないと思いこんで,改革しなきゃと思ってしまうその精神性は,グローバル化!の進展する知識基盤社会!!に生きる者には相応しくないと思うのだがいかがなものだろうか。