学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

アクティブラーニングと論理的思考をめぐって

2022-10-21 | 教育

そろそろアクティブラーニングの限界が学校現場では見えてきていると思うが、未だにアクティブラーニングを信仰しているむきもあるようだ。

とくに、アクティブラーニングが論理的思考力を育むと思っている方に問いたい。アクティブラーニングによって論理的思考力が育つ理由を論理的に説明していただきたい。

西欧の教育の伝統をみていると、論理を教える際に必要とされるアクティブさというのは、精神の姿勢のことであり、教師の言うことをそのまま飲み込むのではなく、その理路を自分なりに明らかにしようとする意識をもって聴く姿勢を言っているようである。

グループでディスカッションをすれば、論理が身につくわけではない。

西欧の伝統的な教育では、まず文法に対する正確な知識が前提として要求され、その基盤のうえに論理に対する理解があり、それは握りしめた手に例えられる。そして、自分の考えを他者に伝えるときに駆使されるのがレトリック(修辞)であり、それは開いた手に例えられる。つまり、論理の理解というのは、自己の内面を徹底的に鍛える学習なのである。この文法、論理、修辞こそが、西洋のリベラル・アーツの根幹をなしている。

そのような教育のあり方を理解しているならば、アクティブラーニングと論理的思考力を直結させることがはなはだ雑な議論であることが分かるだろう。

もともと日本には、西欧のような論理的思考は存在しないと私は考えている。論理的な思考を極力避けることで日本は円滑な人間関係を築こうとしてきたのである。

日本人が他者と話をするときは論理的思考をしているわけではなく、相手と心のチューニングを合わせようと試みるのである。波長を同調させ、相手と同じ心持ちになることが最も肝要となるのである。

子供たちの話し合いなどを見ていると、その話し合いが厳格な型にはめられたものではなく、自由に話しているような場合、その発言は論理的に考えてなされているわけではなく、多くの場合、単に思いついたことをしゃべっているのである。そして、その思いつきが、相手の波長とピッタリあった場合、話が盛り上がるのである。

彼らのディスカッションにおける「そうそうそのとおり」と「それはちがう」の差は、単に波長が合ったかどうかの気分の差にすぎない。本来は、それをさせないためにこそ論理的思考を教える意義がある。

論理的思考ができる者は、時流に流されず、多数意見に流れない。たとえ孤立しても論理の指し示すところに向かう。

日本のアクティブラーニングではそんな人間は育たない。むしろ逆に、思考なき思いつき優先の同調人間をつくるだろう。

それは我々日本人と日本語の奥深いところにある、論理性とは異質な精神性のしからしむるところのであって、そのことの危うさを自覚すればこそ、古来、西欧の論理に匹敵するような知性は、外国語である漢文の教育によって身につけようとされていたのではないかと思われるのである。

だいぶ話がそれた。このへんで。



最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。