学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

それは本当に学校教育のせい?

2009-12-13 | 教育
子どもに起こるさまざまな問題の原因が,
学校教育にあるかのように語られることが多いが,
本当にそうだろうか。

単純に考えてみよう。

よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
みんな,悪い大人になっているであろうか。

よい学校教師にめぐり合った人が,
みんな,よい大人になっているであろうか。

よい学校教師にめぐり合えなかった人が,
優れた成果をあげることはないだろうか。

よい学校教師にめぐり合った人が,
凡庸な一生を送ることはないのだろうか。

学校教育が,
その人の生涯に重大な影響を及ぼすほどの力をもっていると,
果たして言えるのだろうか。
せいぜい,そういう場合もあるという程度のことではないか。

学校や教師の影響を過大評価しすぎてはいないか。

好影響も悪影響も,
振り返って冷静に考えてみれば,
実はそれほど大きなものではない場合が多いのではないか。

学校教育の成果や失敗をことさらに強調する議論には,
いつも危うさがつきまとう。

自信満々の教師は,子どもの成長を
己の教育の成果と誇らしげに語る。

学校に好印象を持てなかった者は,
己のふがいなさの原因を
学校や教師のせいにする。

もしかしたら,
子どもの成長に及ぼす学校教育の影響を
もっと小さく考えてみる必要があるのではないか。

本当に,それは学校教育のせいなのか?
振り返って,冷静に判断してみると,
新しい視野が開けてくることもあるような気がしてならない。

教職は専門職ではない

2009-12-11 | 教育
教職を専門職であるかのように主張したり,
教職が専門職でなければならないかのように主張する人が,
特に教育界には多い。

もともとは,
1966年のILO・UNESCOの「教員の地位に関する勧告」が,
教職専門職論のもとになっているのであろうが,
そこでは,
「教育の仕事は専門職とみなされるべきである」と
書かれているのである。
「みなされるべきである」ということは,
逆に言えば,
専門職とはみなされていない現状をふまえたものであったろう。

教職はおそらく,教育界以外の人たちからは,
専門職とは到底見なされないであろう。

自律的に自らの仕事をコントロールできるか,
専門職にふさわしい賃金等の待遇を受けているか,
専門職にふさわしい職業集団と倫理綱領をもっているか,など,
細かく考えてみると,
到底,教職は専門職ではないし,専門職になれる可能性もない。

いや,かつては,教職は専門職であった。
なぜなら,教職は聖職と見なされていたからである。
聖職者は,医者や弁護士と同じく,
もともとの意味で,プロフェッションである。

ゆえに,戦後,教職は専門職であることを放棄したのである。

教職大学院をつくっても,
教員養成を6年制にしても,
やはり,教職は専門職には成り得ない。
冷静に見て,教職は合理的な意味では,
専門職性に乏しい。
ふつうの大人ならば,誰でもできそうな職業であるし,
事実,勘のいい人なら,
教師よりも上手に教える人はたくさんいるであろう。
だから,民間人校長などという発想が可能になる。

このあたり,医者や弁護士と比較すると,
専門職性の有無が明らかになる。
民間人外科部長や民間人弁護士などをつくれと
主張する人はまれであろう。

もしも,どうしても教職を専門職だと言いたいのであれば,
教職については,非合理の理由を付与するしかない。
つまり,聖職性を主張するしかないのである。

さて,
教職を聖職と見なしてでも専門職であると主張するか,
それとも,専門職でないということを認め,
新たな職業意識を構築していくか,
どちらに進むべきだろうか?