学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学力低下?

2005-07-31 | 教育
学力低下が,昨今よく話題になる。

本当に学力が低下しているのは,
「学力低下」問題で大騒ぎしている大人のほうではないか。

学力低下を唱える人に以下の質問をしてみたい。

1.学力とは何ですか。定義してください。
2.あなたの定義する学力が,いつからどのくらい低下したのですか。
  客観的なデータを添えて,説明してください。
3.その原因は何ですか。またそれが原因だといえる根拠は何ですか。
4.その学力低下を解決するために,どのような解決策が考えられますか。
  また,その解決策が有効だという根拠は何ですか。
5.あなたの議論には,どのような反論可能性がありますか。

これらの質問には,
critical thinkingの訓練を積んだ問題解決能力のある大人なら
きちんと答えられるはずである。

しかしながら,これらの質問に明確に答えられる人は少数であろう。

そもそも「学力」の定義がまちまちなので,
議論がかみ合うはずはないのである。

にもかかわらず,「学力低下」の大合唱が起こり,
それに対して,教育行政が動かされるという状況を見ていると,
やはり大人たちの思考力の低下をこそ問題にするべきだと思えてくる。

論理的な整合性とか実証性とかいったものを大人たちは忘れてしまったらしい。

学力の定義のあいまいさを考慮に入れると,
今のところ,「学力低下は起こっているとも言えるが,起こっていないとも言える」
あるいは,「学力低下は,ある面では起こっているが,ある面では起こっていない」
というのが正直なところではないか。

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個性を伸ばす学校?

2005-07-30 | 教育
最近,「個に応じた教育」とか「個性を大切に」というようなことが
よく言われるようになった。

これはこれで結構なことではあるが,
学校教育にこれを要求するのはいささか無理がある。

そもそも学校とは,歴史的にみれば,
かつて個々ばらばらに教育されていた子どもたちを
一箇所にあつめて能率的に教育するように
つくられた機関である。

したがって,その構造上,集団教育をほどこすことになっている。
学校とはすなわち,集団教育をほどこすところなのである。

集団にとって最も効果があがるように教育をほどこすのが,
学校の本来の役割である。

したがって,本来的には
集団のなかのできるだけ多数の者に対して
できるだけ一定レベルの教育効果をあげることが
求められている。

あくまでも,できるだけ多数の者に対してであって,
すべての者に対して一定の教育効果をあげることは事実上不可能である。

集団の標準から逸脱する少数の者,
いわゆる個性的な資質をもった者が,
個性を発揮すればするほど,
教育効果が望めないのが,学校という組織の特質である。

集団の基準の重視と,集団の秩序の重視,
すなわちルールの厳守と例外の排除が,
学校の教育力を成立させている重要な要素である。

そのため,学校に対して,個に応じた教育や個性重視を求めることは,
そもそも構造上不可能なことを求めているわけであるから,
個々の教師にかかる負担が膨大なものになり,
学校全体としての集団に対する教育力が低下することになる。

学校が,それに対応しようとすると,
集団に対する効率性を重視する本来的な性質から,
能力別にクラスを分けるというようなことをしがちである。

この能力別クラス編成は,
一見合理的なように見えるが,
能力の,ある一面だけをみて選別しているにすぎず,
必ずしも個性に対応していることにはならない。
学習効果についても,
集団の成員の多様性から生じる教育効果を減衰させている点で,
疑問が残る。

結局のところ,学校は,個性を伸ばすための機関ではないので,
個に応じた教育は,優れた家庭教師やコーチに頼むしかないのである。

個に応じた教育を標榜している学校も増えてきたが,
どういう意味で個に応じるのか,そこに論理矛盾がないかどうか
よ~く見極めることが大切である。

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頭上注意

2005-07-28 | 授業の雑談
「大きな栗の木の下で」という歌がある。

でも、この歌、よく考えると危険である。

大きな栗の木の下であなたとわたしが仲良くあそぶのは結構だが,
いつ,頭の上にいがが落ちてくるかわからない
極めてスリリングな状況なのではないだろうか。

シラクサの独裁者ディオニュシオス1世が,
王の幸せを味わいたいといったダモクレスを
山海の珍味の並ぶ贅沢な玉座に導いたが,
その頭上には馬のたてがみ1本で剣がつるしてあり,
おそれをなしたダモクレスに対して
ディオニュシオス1世が,
「王の幸せとはこのようなものだ」といったというお話の
あの「ダモクレスの剣」のような深~い意味があったりして。

なにげない日常にひそむ危機を表した意味深長な歌だったりしたら
こわいですよね。

「大きな栗の木の下で」を聞くたび,
このような勝手な事実無根の想像をしてしまうのであった。

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2種類の学校

2005-07-28 | 教育
学校には、2種類ある。
ひとつは、人間教育を志向する学校であり、もうひとつは、成果主義を志向する学校である。

人間教育学校は共同体である。人間教育学校においては、学習は、将来生きていくために必要な学びの姿勢の育成に重点が置かれ、成績においては、個々の生徒の成長のプロセスを重視する。学習内容よりも態度やスキル形成を重視するのである。したがって、いわゆる受験学力には直結しない。長い人生を生き抜く力として学力をみる立場である。学力が将来にわたって生きた力となるためには何が必要かを考えてカリキュラム構成するため、必ずしも短期的な成果は得られない。将来的に教育効果が現れることを期待しているのであるが、その効果があらわれるかどうかは未知数である。

成果主義学校は工場である。成果主義学校においては、学習は、なによりも成果を出す手段と考えられる。つまり雑駁に言えば,受験学力こそがこの学校における学力である。学校における学習が、受験における客観的な成果として現れることを何よりも喜ぶ。しかし,生徒が成果を挙げたことを生徒のために喜ぶのではなく,学校の教育の成果があがったように見えることを学校のために喜ぶのである。学習方法としては、成果を出すのに最も効果的な方法がとられることになる。そこでは,効率が最優先であり,非効率な学習活動や効果の望めない諸活動は避けられる。しかし、このような学校で身につけた学力が将来において活用可能な学力であるかどうかは未知数である。

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掃除の効用

2005-07-27 | 教育
最近,生徒に掃除をさせない学校も増えてきているようだが,
残念なことである。

世の中の多くの仕事は,
努力の成果が目に見えにくいものが多い。

勉強もまた然りである。

ところが,掃除は,努力の成果が目に見えるのである。

やればやっただけ,きれいになる。
それが目に見える。

さらに,学校の掃除は,
自分のためにやる仕事ではなく,
他人のためにする仕事である。

自分の手を汚しながら一所懸命やればやるほど,
まわりがどんどん美しくなる。

学校でやる作業で,
これほどよろこばしい作業が他にあるだろうか。

「やればできる」
「自分のためより他人のために」
などの道徳的価値を教えたいのならば,
生徒に掃除をさせることである。

ただ黙々と掃除をすることに喜びを感じることのできる人間は,
勉強においても黙々と学ぶことのできる人間である。

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ゆとり教育を論理的に考える

2005-07-26 | 教育
ゆとりがあるとは,余裕があることである。

余裕がある教育は,ふたつの面から考え得る。

ひとつは,時間的な余裕であり,もうひとつは量的な余裕である。

時間的に余裕がある教育とは,
学習量に比べて,学習時間が十分に確保されているということであり,
量的に余裕がある教育とは,
学習時間に比べて,学習量が少ない教育である。

このことから,必然的に導き出される結論は,
「ゆとり教育は,学習時間を長くし,
 学習量を減らすことによって
 可能になる。」
ということになる。

学校週5日制などで学習時間を減らし,
学習内容の精選で学習量も減らしたのでは,
ゆとりのある教育は不可能である。

さらに,学習量を減らせば,
知識の量が減るのは必然である。

知識の量にかわって思考力や判断力が伸びるかというと,
思考力や判断力の育成には,
じっくり考える時間を確保してやる必要がある。
十分な学習時間なくして思考力が伸びることはない。

したがって,
学習時間も学習量も共に減らすことと,
従来のいわゆる学力を保持しようとすることとは,
論理的に矛盾する。

学習に対する価値観を変換し,
さらに学力の定義も変換し,
教育のパラダイムを変えることなしには,
時間・量共に減らすことに正当性はなく,
ゆとり教育とは,
学習をさせない教育と同義となる。

しかし,教育のパラダイムを変換する具体的な方向性は
まだ誰にもはっきりとは見えていないし,
それを提唱したとしても,それを理解する人は少数であろう。

かくして,教育は迷走する。
教育はどこへいくのか?

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ビジュアル化能力

2005-07-25 | 教育
教師が暗黙のうちに前提としている生徒の基礎的な力に欠落がある場合,
いくら授業をしても学力が向上しない場合がある。

例えば,聞いた言葉を頭のなかでビジュアル化する能力である。

例をあげて説明しよう。

生徒に「ワニの腕立て伏せ」または「カメの腹筋(運動)」と言ってみる。
そのとき,笑うかどうかをみるのである。

この言葉を聞いてすぐに,その内容が頭のなかでビジュアル化されるなら,
そのおかしさに必ず笑うであろう。
言葉をビジュアル化しない限り,何も面白くないのである。

したがって,このジョークは,
「聞いた言葉を頭のなかでビジュアル化する能力」を前提にしている。

そのため,言葉をビジュアル化する能力がない場合,笑えないのである。

これを教室で実験してみると面白い。

いきなり,「ワニの腕立て伏せ!」と言ってみるのである。
おそらくクラス全体が一瞬にして笑うということはないであろう。

現在の生徒には,聞いた言葉を頭のなかでビジュアル化する能力が欠如しているのである。

実はこのことは重大な問題である。

この能力がなければ,授業を本当には理解できないのである。

しかし,この能力がない生徒は,
言葉を言葉のまま記憶することでペーパーテストに対処するので,
内容を理解しているように教師から誤認されてしまうのである。

しかし,本当は全く内容が理解できていないのである。

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友だちファシズム

2005-07-24 | 教育
「友だちは大事ですよ」とか,
「よい友だちをつくりましょう」とかよく言われる。

子どもは,大人以上に,
友だちは大切なものだと思っている。
とても強く思っている。

「友だちは何よりも大切だ」という価値観を,
だれもが正しいと思っている。
そして,友だちに囲まれて楽しく生活することを
何より好む。

しかし,この価値観のせいで
苦しむ子どももいる。

自分には,友だちがいないと思っている子どもである。
自分には,気の合う友だちができないと思っている子どもである。

友だちがいないことなんて,
本当はよくあることなのに,
何かたいへんなことのように思ってしまうのである。

「友だちなんていればいたでよい,いなければいないでよい」
「友だちが何より大切だというわけでもない」と,
価値観をまわりの大人が相対化してやれば,
そんなに苦しまなくてもすむかもしれない。

ひとりぼっちもまた,
素敵な魅力になるかもしれない。

「友だちは何よりも大切だ」という価値観の絶対視は,
一種のファシズムである。

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サルに失礼

2005-07-24 | 授業の雑談
よく立ってものを食べると,
「サルみたいなまねをするな」としかられることがあるが,
これはサルに失礼である。

よくサルを観察してみたまえ。
ちゃんとしゃがんで食べている。

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ノルウェーのフィヨルド

2005-07-22 | 授業の雑談
ノルウェーには,断崖絶壁のフィヨルドがある。

プレケシュトーレンという,この断崖絶壁に登ったときのことである。
数10メートルもあるこの絶壁のうえに登ったとき,
驚いたことには,登山道から頂上に至るまで,柵もなにも一切ない。
全く自然のままなのである。
うっかりするとおっこちてしまうのである。

びびっている私に,
私を案内してくれたノルウェー人のいわく,

「ここまで2時間もかけて登ってくる人は,
 自分の身は自分で守ることができるはずで,
 そのような人には柵は必要ない。
 柵といえども,自然を壊すことになるのだから,
 そんなものは必要ない」。

つまり,落ちるのは,落ちた者の責任であって,
それより自然を守ることが大切だというわけ。

徹底した自己責任の考え方と自然保護の考え方に
我が国との発想の違いを痛切に感じてしまったのであった。

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わかる授業?

2005-07-21 | 教育
最近,「楽しくわかる授業をしましょう」というような
お話をよく聞くようになった。

今日は,この言葉のうち,
「わかる授業」について考察する。

思うに,
授業がわかってしまっては,実はいけないのである。

まず,「わかる」ということであるが,
世の中には,容易にわかることと容易にはわからないことがある。

授業内容にも,容易にわかることと,
容易にはわからないことがある。

さらに,「わかる」「わからない」は,
生徒個人個人によって異なるのである。

概して,価値ある事柄は,
誰にも容易には「わからない」ようにできている。

この「わからない」ことを「わかろう」とすることから,
「学び」が始まるのである。

そして,本当に学び始めた者は,
自分の前に無限の「わからない」ことが横たわっていることに気づき,
慄然とする。

そこではじめて,自分の愚かさに気づき,
自分を取り巻く自然の神秘や,人類の英知に対して
頭を垂れる謙虚さをもつようになるのである。

自分はまだ何もわかっていないのだということを知るために「学ぶ」のである。

教師が,「わかる授業」を工夫するなど
「学び」の破壊以外の何者でもない。

授業のなかに,深遠な真理の一端があるとすれば,
その授業は,必ず容易には「わからない」授業になるはずなのである。

そのような授業の「わからなさ」から,「学び」は始まるのである。
このような「わからなさ」に立ち向かう気構えのない生徒は,
そもそも「学ぶ」資格がないのである。

「学ぶ」資格のない生徒が「わかる」ようになると信ずることは
むしろ教師の傲慢である。

安易に「わかる授業」は,「学び」を終わらせてしまうのである。
生徒は,世の中が「わかる」ものだと思い込み,
世の中の価値の本質をさえ見誤るようになる。

このことが,知性の崩壊の危機をもたらすのである。

教師は,安易に「わかる授業」を追求することをやめるべきである。
教師自らが,「わからない」ことに対して謙虚であるべきである。

生徒は,授業は本来わからないものであることを銘記すべきである。

「わからない」授業と真剣に格闘してはじめて,
真理は,あなたに対して一瞬だけ微笑むであろう。
「わからない」闇のなかで,「わかった」と思える一瞬,
それが「学び」の喜びなのである。

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楽しい授業?

2005-07-21 | 教育
最近,「楽しくわかる授業をしましょう」というような
お話をよく聞くようになった。

今日は,この言葉のうち,
「楽しい授業」について考察する。

思うに,
授業が楽しくては実はいけないのである。

まず,「楽しい」ということであるが,
世の中には,楽しいことと楽しくないことがある。

授業内容にも,興味深く楽しく学べることと,
どうしても楽しくは学べないことがある。
すなわち,苦しい修練を必要とする内容があるのである。

教師がことさらに「楽しい」授業をめざすと,
「楽しくない」授業の「楽しくなさ」が強調される。

生徒は,授業に「楽しさ」を求めるようになり,
楽しくないことは学ぼうとしなくなる。

生徒が授業を「楽しさ」で選ぶようになるのである。
「楽しさ」は,授業内容の価値の本質ではないため,
生徒は,世の中の価値の本質をさえ見誤るようになる。

このことが,知性の崩壊の危機をもたらすのである。

教師は,授業に「楽しさ」を求めることをやめるべきである。
生徒は,授業は本来楽しくないものであることを銘記すべきである。

そのあきらめがあってこそ,はじめて教師と生徒の
相互の人間性の織り成す
そこはかとない授業の面白さが成立することもあるのである。

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コロンブスの卵

2005-07-19 | 授業の雑談
「コロンブスの卵」という話がある。

卵を立てるのに、彼は卵の底を割って立てたというのである。

発想の転換の例としてよく言われるが、
私は,
卵を割らずに一生懸命立てようとしていた人々の愚直さを
断固支持する。

蛇足だが,コロンブスの本名は,コロン。
ブス(bus)は,ラテン語の語尾変化である。

ちなみに,バス(英:bus)も,
omnibusの語尾の部分をとったもの。

テスト中,先生と目が合いませんか?

2005-07-19 | 授業の雑談
テストを受けているときに,こんなことを感じたことはないだろうか。

テスト中に,考えがまとまらず,
ふと顔を上げると
こちらのほうを向いている試験監督の先生と目が合う。

しばらくして,また顔をあげると,
また,試験監督の先生と目があう。

おかしいなあ,クラスには,何十人もいるのに,
先生は,わたしにばっかり目をつけているのかなあ。

先生は,じっとわたしのほうばかり見ているのかなあ。
どうして??


実は,これは誤解である。

教師になって,試験監督をやってみて
謎が解けた。

クラスの全体が,下を向いてテストに取り組んでいるときに,
ひとりが顔をあげると,
自然とそちらのほうに目がいくのである。

もぐらたたきのもぐらのように見えるのである。

別にあなたに注目しているわけではないのである。

不思議

2005-07-18 | 授業の雑談
自分の身の回りを見回してみると,
世の中は不思議に満ちている。

それゆえ,疑問はいくらでもわいてくる。

わたしは、鳩を見るたび思う。
なぜ、彼等は歩くときに首を振るのだろう。

あの首にコルセットをはめたら、果たして歩けるのかどうか?
年来の疑問である。

まだ実験は実施していないので、なぞのままである。

鳩をみるたび、疑問を持つことの楽しさを想う。