学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

是々非々

2008-02-29 | 教育
どうも最近,
学校で好ましからざることが
起こると,
なんでもかんでも
子どもの心に寄り添い,
心のケアで解決しようと
しすぎていないか。

ともすると,
よいことと悪いことが
曖昧になっていはしないか。

よいことはよい,
悪いことは悪いとする
教師の毅然たる態度も
必要ではないのか。

是々非々を教えるのも
学校の重要な役割であろう。

内心忸怩たる思いを抱える
今日この頃である。



教職の専門性

2008-02-26 | 教育
教職の専門性というのはどういうことだろうか?

よくよく考えてみれば,
教えている教科の内容を
専門的に深く極めているわけでもなく,
誰にでもわかりやすく教えることのできる
十分な技量を備えているわけでもないし,
今後とも,それらが身につく気配もない。

ただただいろいろな雑多な仕事やできごとがあり,
それぞれに日々対処することが求められる。
そして,日常生活や子どもの成長に関する
ありとあらゆることを深くはなくても,
多少は知っていて,
その知識を使えることが求められている。

学校教師の専門性を考えるとき,
つくづくそれは,
スペシャリストの道ではないなと思う。
どこまでも,
ジェネラリストに徹すること,
それこそ,
教職の専門性と言えば言えるのではないだろうか。

バランスのよい勉強法

2008-02-23 | 教育
勉強というのはよく考えてみると,
インプットとアウトプットから成り立っている。
つまり,
聞いたり読んだり見たりしてインプットし,
話したり書いたりしてアウトプットする。

このインプットとアウトプットの
量的質的バランスがよくとれていることが
効果的な学習にとって大切なことではないだろうか。

どうも,教室のなかでインプット偏重になっては
いないか気になっている。

例えば,ワークシートの多用によって,
純粋に自分の力で
はじめ・なか・おわりの整った文章を書くという
アウトプットの機会が減っているのではないか。

また,先生から聞いたことを自分の力でまとめて
ノートに書くというアウトプットの機会が
減っているのではないか。

話すというアウトプットは
盛んであるように思われるが,
論理的に話すというレベルになると
少々心もとない。

インプットとアウトプットの
バランスをとるという観点から,
授業を見直してみると
何か発見があるかもしれない。

PISA型学力?

2008-02-14 | 教育
PISA型学力をどうしたら
身につけさせることができるか?

それを考える前に,
PISA型学力の拠って立つ学力観を明らかにすべきだ。

OECD東京センターのHPで「過去のニュース」の
12月4日のところをみると,
2006年PISA調査発表時の
OECD事務総長アンヘル・グリア氏の
スピーチの内容を見ることができる。

http://www.oecdtokyo.org/theme/edu/2007/20071204pisa.html

これをよく読むと,
PISA調査が,
OECD(経済協力開発機構)の目的を
きちんと踏まえて
行われていることがよく分かる。

果たして,我が国の学校教育が,
OECDと目的を共有しているのか,
あるいは,共有すべきなのか,
その議論なくして,
PISA型学力を称揚するのは,
それこそリテラシーの不足と
いえるのではないだろうか。





楽しからずや

2008-02-13 | 教育
遠く離れたところに暮らしている
高校時代の友人からメールが来た。
もう20年以上も会っていない。

でも,気持ちは通じ合うのだ。

友(メール)遠方より来る,
また楽しからずや,
といったところだ。

学校のありがたみというのは,
つまるところ,
こういうところにあるのではないだろうか。


教育とキーワード

2008-02-08 | 教育
教育の世界の動向を見ていると,
いつの時代にも,
教育の問題点を指摘する
キーワードが出現すると,
あたかもその教育の問題点が
極めて普遍的で重大な問題であるかのように
認識されてしまう傾向がある。

少し冷静に考えてみたい。

「落ちこぼれ」「吹きこぼれ」

学校が集団教育である限り,
成績をつければ当然トップとボトムは存在する。
ゆえに,学校がある限り,
「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」は存在する。
したがって,
学校が集団教育を行い成績をつけ続ける限り,
「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」は存在し続ける。

「学力低下」

学力を測定可能なものであると仮定すれば,
その年次推移は,向上か低下か横ばいかの
いずれかである。
戦後,「学力向上」が問題になったことはない。
「学力低下」が問題になったことはしばしばある。
したがって,戦後日本人の学力は
低下し続けていることになる。
ところで,戦争のために
学校教育を十分に受けることができなかった
いわゆる戦中派と言われる人から,
「我々は戦後,学力無し世代と呼ばれたものだ」
という話を聞いたことがある。
これはどうなるのか?

「PISA型学力」

では,いままでの学力は何型?
それより先に,
PISA型って,どんな型?
OECDがやっているわけだから
経済協力開発型とでもしましょうか。
そうするといままでの学力は,
文化教養維持型??

「詰め込み教育」

きちんと詰め込んだなら,
もう少し残っていてもよさそうですが・・・。
どうも詰め込み損ねたみたいですね。

もうこのくらいでやめておきましょう。
おあとがよろしいようで。



豊かさを前提としていてよいか

2008-02-03 | 教育
学校の施設は,
貧しく前近代的であるべきであると
このごろ考えるようになった。

なぜなら,現在の豊かな生活を
次の世代も享受できるかどうかが
不確かだからである。

教育の目的が,
次世代を担う子どもたちが
幸せに暮らしていけるように
するためのものであるならば,
「豊かさ」を前提にするべきではないのである。

そうすると,
学校では,
できるだけ人類に普遍的な価値を
貧しい環境のもとで教えるべきだということに
なりはしないだろうか。

パソコン,インターネット,
電子黒板,電卓などなど,
教室のIT化が進行している。
それは,
目新しい便利さや可能性をもっているし,
企業の利益にはなるかもしれないが,
子どもたちの生きる未来の社会の姿が
未知であることを思えば,
もっとプリミティブな
紙と鉛筆と書物を使って行う学習方法を
徹底的に身につけさせたほうが
子どもたちの将来のために
よくはないだろうか。

学校でしか,
こんな原始的なことはやっていないと
言われるぐらいでちょうどよいのではないか。

学力を伸ばすための学校

2008-02-03 | 教育
現在の学校システムは
学力を伸ばすことを目的とはしていない。

学力を最低学力保証の考え方で捉えるならば,
自動車教習所のシステムをとるのが
最も合理的である。

学習の各段階が細かく区切られ,
その目標が細かく定められ,
その目標に到達したかどうかだけが基準となって,
次のステップに進めるシステムである。
卒業の認定も,すべての段階の目標とするレベルに
到達したかどうかだけで判断される。
修学年限は問題とされない。

この自動車教習所方式に,
さらに上級の段階を付け加えていくイメージで
学校システムを構成すれば,
学力を伸ばし,多様な学力を持った生徒に応じた
学習を保証できるのである。

これと比較して,
現在の学校システムを考えてみると,
もともと目標到達が学年進行の条件とはなっていない。
義務教育についても年齢主義が採られているし,
そもそも,学年主義というものが
学力保証とは相容れないものなのである。

目標到達ではなく,
教室という場で,
一定期間学習したという事実が
修了の条件となっているのが現実である。

つまり,学校システムそのものの目的が
学力保証にはもともと置かれていないのである。

学校の目的は,学力保証よりもむしろ
健全な社会生活を送ることのできる国民の育成に
求められている。
そのため,学年や学級は生活集団という趣が強いのである。
そのため,学力がどうあれ,
その集団内に一定の期間所属して生活し,
そこで授業や授業外で学ぶという体験を積んだことで
修了とみなされる傾向が強い。

本来は,
義務教育ではない
高等学校や大学は,
このような生活集団的な学級は必要なく,
高校,大学における単位制は,
学力保証の指標であるべきであるが,
ここにも,
学年主義の影響が有形無形に作用し,
単位取得が必ずしも学力保証になっていないという
現実がある。

むしろ,我が国では,学級というものに
生活集団としての要素を求めてきたのではないか。

公考えてみると,
現在の学校システムを維持したままで,
学校に対して,学力保証を求めることには
無理があることがわかる。

かといって,これまで当然と考えられてきた
生活集団としての学級や学年の機能を
無駄なものとして排除してよいのかどうか,
いったい,学校に何を求めるのか,
このあたりのつきつめた議論が必要ではないだろうか。

漠然と,学力の向上と心の教育の充実の両方を
学校に求めるような雑駁な議論は
時間の無駄だから
もうやめにしたほうがよいのではないか。