英語では,You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.というそうだが,「馬を水辺に連れていくことはできても,水を飲ませることは出来ない」という意味である。
このことわざは,教育という行為の本質をよく表している。教育者と被教育者の関係においては,昔も今も変わらず,「教えたら学ぶ」場合ばかりではなく,「教えても学ばない」「教えなくても学ぶ」ということがふつうに起こるのである。経験のある教師ならば,至極当然のことと思うであろう。
ひるがえって,学習指導要領の文言をみると,「~するようにする」や「~する力を養う」というような表現がたくさんあり,学習指導案でも学習者主体に「~を身につける」や「~を理解できる」や「~を考える」などなどの表現が使われることが多くなっている。
これを忠実にやろうとすると,「教えても学ばない」を認めてはいけないことになる。無理である。教師ができるのは,ただ「教える」ことまでで,教えたことを児童生徒が理解したり,考えたり,身につけたり,はたまた教師が態度を養ったりすることは,真面目に考えてみると不可能なことなのである。
教師は「教える」ことに責任をもつことが出来るとしても,教えた結果については責任を負うことは出来ないというのが本当のところではないか。そう考えると,近頃はやりの,「○○人材の育成」というようなキャッチフレーズも掛け声以上の意味は持ち得ないということになる。
教師は自分が責任を持てる範囲で,自分は何を教えるのか,あるいは,自分は何を子供に語るのか,ということに限定して考えるべきであろう。
このことわざは,教育という行為の本質をよく表している。教育者と被教育者の関係においては,昔も今も変わらず,「教えたら学ぶ」場合ばかりではなく,「教えても学ばない」「教えなくても学ぶ」ということがふつうに起こるのである。経験のある教師ならば,至極当然のことと思うであろう。
ひるがえって,学習指導要領の文言をみると,「~するようにする」や「~する力を養う」というような表現がたくさんあり,学習指導案でも学習者主体に「~を身につける」や「~を理解できる」や「~を考える」などなどの表現が使われることが多くなっている。
これを忠実にやろうとすると,「教えても学ばない」を認めてはいけないことになる。無理である。教師ができるのは,ただ「教える」ことまでで,教えたことを児童生徒が理解したり,考えたり,身につけたり,はたまた教師が態度を養ったりすることは,真面目に考えてみると不可能なことなのである。
教師は「教える」ことに責任をもつことが出来るとしても,教えた結果については責任を負うことは出来ないというのが本当のところではないか。そう考えると,近頃はやりの,「○○人材の育成」というようなキャッチフレーズも掛け声以上の意味は持ち得ないということになる。
教師は自分が責任を持てる範囲で,自分は何を教えるのか,あるいは,自分は何を子供に語るのか,ということに限定して考えるべきであろう。