学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

個に応じた指導とは?

2014-10-06 | 教育
ずいぶん前から,個に応じた指導ということが言われ,いまでも言われているようである。学校は,もともと一斉指導に便利な構造になっているから,個に応じた指導をすることは結構難しい。子供一人ひとりに応じた指導をどうすればできるかと考えて,いろいろと少人数クラスを作ってみたり,グループ学習をさせてみたりしているようであるが,効果のほどはいかがだろうか? 個に応じた指導をするのであれば,家庭教師がいちばんよいのである。子供の数だけ教員がいれば,個に応じた指導は確実にできる。行政サイドでは,その人的コストをかけるつもりはもともとないのだから,個に応じた指導というのも,畢竟,掛け声だけ,形だけの話になりがちなのである。そもそも,一人の担任が20人なり30人なり40人なりの子供を相手にしていたのでは,個に応じた指導は出来ないと考えるのが合理的であろう。少なくとも,授業場面においては,どのような集団編成をしようと,1対多の関係では個に応じた指導には限界がある。個に応じた指導は,1対1でなければできない。

それでも個に応じた指導をしようとすれば,学校の現状での教員配当では実現できない。と言っては身も蓋もないので,学校で可能な個に応じた指導のやり方を考えてみる。

学校で可能な個に応じた指導とは,子供一人ひとりの成果物やノートなどを丁寧にみて,しっかりと赤字でアドバイスを一人ひとりにしてやること,そして,それを繰り返すことにつきる。また,一人ひとりに適切な声かけをし,必要とあれば,居残りさせて勉強させるようなやり方が,本当の意味での個に応じた指導なのである。

なにも,目新しいことではないし,研究発表するほどのことでもない。昔から心ある教員ならやってきたことである。学校の形は一斉指導であっても,丁寧な個別指導を並行して時間をかけてやっていたというのが,かつての学校の姿である。今は,教員が忙しいせいか,子供の成果物やノートを丁寧に添削したり,評言を書いてくれる教員が減ったように思う。

めだたないが大切な日々の指導を怠っては,いくら授業を工夫したとしても,なかなか成果はあがるまい。

教育のグローバル化を考える

2014-10-04 | 教育
これからの社会では,グローバルに活躍できる人材の育成が必要であり,国際的な相互交流もますます重要になるということで,教育のグローバル化(いまのところその実態は実質的には英語に過度な比重をかけるやり方に限定されている)が急速に進んでいる。このような教育の動きをみるにつけ,教育は一体何のために行っているのかという疑問が頭をもたげてくる。他国の植民地であったがために自国の文化に壊滅的打撃を受け,もはや自国の言語では文化の進展を望めない状態でもなく,つい最近まで鎖国していて外来文化の取り込みを急務とする状態でもない現在の我が国において,小学生に英語を必修化し,高校の英語授業はすべて英語で行うなどという不思議な政策をとる背景が前述の疑問と重なり合うのである。あるひとりの子どもが一生のうち,外国人と英語を用いて生活を共にする状況はどの程度の確率で起こりうるのか,そのことを冷静に考えてみればよい。そのような状況の起こる蓋然性が高いからこそ,すべての子供に対する英語教育重視政策に出ているのであろう。そうすれば,文部科学省あるいは政府の思い描いている将来像というのは,我が国を英語を共通言語とする多民族国家にしていく予定であるか,あるいは我が国を捨てて子供たちを世界に離散させる予定であるかのどちらかの状況しか思い浮かばない。経済状態がどうあれ,我が国が我が国としてまがりなりにもいまとあまり変わらない形で独立を保ち続けるとすれば,大多数の国民は,海外旅行などの場合以外は,英語とは無縁の一生を過ごすはずである。さらに,公教育は優れた人材育成のためにだけあるのではない。優れていようといなかろうとあらゆる能力の子どもたちが,その能力に応じて国民という国家の担い手となれるようにとの願いで行われているのである。優秀な人材が我が国を支えているのではない。勤勉で親切で努力を惜しまない名もなき人々が我が国を支えているのである。公教育とくに義務教育の使命は,そのような無名の人々を育てることにこそある。そのことを文部科学省は忘れてしまったようである。

優秀な留学生をわが国に呼びよせるために大学での英語授業を推進などということも考えているようだが,不可能である。優秀な留学生であれば,言語的障壁があっても,それを問題にはしない。それよりも,我が国に学ぶべきものがあるから留学してくるのである。日本語は海外の優秀な留学生にとって学ぶべき魅力的な対象である。にもかかわらず,我が国においても英語でしか学べないのであれば,わざわざ日本に来る必要はなく,英米に行けばよいだけのことである。その結果,優秀な留学生は日本に来ないということになる。

また,教育のグローバル化を推進するにあたって,我が国の伝統文化の尊重がセットになっているが,これも無理である。グローバリゼーションというのは,国境を曖昧化する結果を生むので,伝統文化の尊重というような国民国家の残滓ともいうべきものは,早晩捨て去られる運命にあるのである。わが国の伝統的な価値観を身に付けた人間が,グローバルな尊敬を勝ち得るというような牧歌的な図式は,19世紀的なものであり,西欧がまだ東洋のエキゾチシズムへの憧憬を抱いていてくれた時代の産物に過ぎない。グローバリゼーションの時代にあっては,コスモポリタンな倫理が創出されるか,もしくは大国の論理に飲み込まれるのである。いや,もう飲み込まれている。自国の言語をもち,その言語が十分高度な文化的要請に耐えられるにもかかわらず,グローバル化の名のもとで英語の教育にこのように狂奔する姿をみていれば,我が国はもうアメリカになりたいのだと思えてくる。しかし,アメリカの方がそれはお断りというかもしれない。

電子黒板は使えない

2014-10-02 | 教育
電子黒板が教室に革命をもたらしたりなんかはしないのである。そもそも据え置きタイプの電子黒板は,普通教室で使うにはまだまだ小さすぎて後ろの席からは見にくい。それに,驚くほどの機能もない。しかも,価格が高い。黒板と手書きの模造紙で十分その機能は補える(ひところ,拡大プリンタで模造紙ぐらいの大きさに教材を拡大するのがはやったが,あれも後ろの席からは見にくいのである。図や絵の拡大率よりも,文字の拡大率を大きくしないと,見やすい教材提示にはならないのである。だから手書きがいいのである)。

それでも,「電子」黒板を使いたいならば,高い機械を買わなくても,いろいろやりようはあるのである。今の技術レベルでは,プロジェクタでスクリーンに映す方が,解像度の点では難があるものの,見やすさという点では勝るのである。そこでうまく組み合わせれば,PCとフリーソフトとペンタブ,それにプロジェクタとの組み合わせですら,電子黒板並みの機能は簡単に安価に手に入る。なにも,今の機能の電子黒板に数十万円以上ものお金をかけなくとも,せいぜい数万円以下で同じような機能が手に入るのである。wiiリモコンをコントローラやペン代わりに使うことも工夫次第では可能である。

高価な電子黒板や教材提示装置のデモに来られる企業の方に,「その機能なら,これとこれの組み合わせで安く似たようなことができるでしょ」などと,いじわるな質問をしてみると,「そうなんです。詳しい先生で,そうされている先生方もいらっしゃいます」などと答える正直な方もいらっしゃる。

私はケチでいじわるなので,高価なものを買うよりも,工夫してやりくりするのが好きである。黒板全面の大きさのiPadが出現するまでは,ケチを通すつもりである。


ICTはいらない

2014-10-02 | 教育
学校にパソコンや電子黒板やタブレットが整備され,無線LAN環境が整えられ,インターネットへの常時接続が可能になってみて,最初のうちは,教師生徒ともども喜んでいろんな可能性があるのではないかと期待してみたものの,随分高くつくおもちゃであったなあと思う日が結構はやくやってくるというのが多くの学校の実情ではないかと推察する。そもそもICTによる教育効果,それも幼小中高校レベルでの学力や能力の伸長などということについては,あまり期待すべきではないのである。なぜなら,日本の学校環境であれば,ICTを用いてできるぐらいのことは,ICTを用いなくてもできるからである。それに,ICTに頼り過ぎると確実に思考力が落ちるような気がする。自分自身で考えてみても,じっくり考える前にネットで調べてなんとなくわかった気になってしまうからである。いわんや情報の質も良く判断できない子供においてをやである。

それに,ICTにはもっと重大な問題がある。電気が必要ということである。機械は壊れるということである。つまり,ICTは不安定だということである。学校教育は,子供に将来を生き抜く力を与える営みである。将来,今と同じように電気が供給され,機械が存在するとは限らないではないか。そうすれば,子供達が身につけるべき力は,そのような不安定なものを用いなくとも,原始的な道具でもって思考し判断しコミュニケーションをとることのできる力である。

古代ギリシアの賢人たちは,地面に木切れかなんかで図を描きながら議論し,哲学だの幾何学だのの体系をつくりあげたのである。これこそ真の人間の力ではないか。そのひそみにならえば,紙と鉛筆があれば十分,教育ができる。黒板とチョークがあれば,十分に高度な教育ができるのである。

私も授業でICTは用いている。しかしあくまでもそれはオールタナティブであって,授業を構成する際に,必ずICTがなくても支障がないように,ICTなしでも同じ教育効果を生むことのできるプランを並行して準備しておくことにしている。だって,そうしないと,突然,動かなくなることがあるんだもん。