学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

本音で語る

2011-06-30 | 教育
突き詰めて考えれば,
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。

それは,「本音で語る」ということである。

教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。

それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。

学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。

「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。

言葉遊びもほどほどに

2011-06-27 | 教育
教育界にはびこる悪弊は,
やたら新しい言葉を作りたがることである。
なさけないことに文部科学省がそのお先棒を担いでいる。

そもそも「生きる力」あたりからおかしくなった。
何の修飾語句もなく「生きる力」などと普通には
言うはずのない言葉である。
「生きる」ための「力」という意味であろうが,
それでもおかしい。
私はそんなに力を入れて生きてはいない。
そもそも意味をよく考えると,
「生きる」と「力」は直接には結びつかない言葉である。
「力」がなくとも生きている,生かされている,
「力」があっても生きられない,そういうことがあるのが人間である。

「伝え合う力」もまた怪しい。
お互いに伝え合うための力ということであろうが,
ふつうは言わない言葉遣いであろう。
この「力」は,技能か,能力か,知識か? 
内実がないのである。

ほとほと「力」がお好きなようである。
そういえば,「人間力」などというよくわからないものもあった。

「心の教育」も難しい。
道徳を教えることはあろう,
人の道を教えることはあろう,
規律を守らせたり,規範を示したりもできよう。
しかし,それは「心」を教えることとは違う。
「心」は教える対象とするには,
無限定に過ぎる。

「食育」というのもすわりが悪い。
「知育」「徳育」「体育」と並べてみると,
それぞれ「知を育てる」「徳を育てる」「体を育てる」である。
「食を育てる」とは何ぞ。農業のことか?

「外国語活動」も変である。
外国語活動があるならば,国語活動もあるだろう。
はて,国語活動とはなんじゃろう。
単に「外国語」あるいは「国際理解」でよいではないか。
「外国語」をやらせたいのに,
「外国語」と直截に言えないのであれば,
成果は上がらないからやめたほうがよい。

「熟議カケアイ」に至っては,
もう何も言うことはない。
世も末である。

このように文部科学省を中心に,
教育界では,新語珍語のオンパレードである。
こんな言葉を使っていると,
こちらの言語感覚まで狂ってしまう。

こんな言葉をおかしいと思わないのは,
国語に対する敬意がない証拠である。
これこそが我が国の教育の危うさである。

こんなわけの分からない言葉でごまかさないで,
昔からある語義の明らかな言葉で堂々と,
新しい教育の在り方を語るべきではないか。


道学先生

2011-06-22 | 教育
いま学校に必要なのは,
愚直に道を説く先生である。

世事に疎く,融通がきかない,
ただひたすらに己の信ずる道に生きる,
そんな先生である。

とにかく変えることに意味があると思っている改革論者や,
これからはICTやデジタルの時代だなどと思っている新しい物好きや,
アンケートでもってファカルティーを
デベロップしたりなんかできると思っている単純な連中は,
結局,天下に大道あるを知らぬ輩である。
つまり,お子ちゃまである。

お子ちゃまが幅をきかせる学校は,
すぐに結果の出ることや
見栄えのよいことばかりに熱心になる。
浮かれているうちに,薄っぺらな学校になる。

よく見て御覧なさい。
いつの間にやら,
結構ダメになっている。

今はただただ,
道学先生を待ち望むのみ。

目標・評価より大切なこと

2011-06-21 | 教育
授業を構成する上で,まず目標(めあて)をはっきりさせ,
その目標が達成できたかどうかを評価するということが,
重要な位置を占めている。
そこのところがはっきりしているかどうかが,
授業の良否を決めるとまで言われる。

確かにそれはそうであろう。
しかし,もっと大切なことがあるのではないか。

授業をしたことのある者ならおそらく理解できるであろうが,
目標は達成できなかった,
あるいは当初の目標からは全くずれてしまったが,
それでも,「よい授業」というのがあるのである。

授業中のふとした雑談から,
子どもがその雑談にひきこまれていって,
時間を忘れて,教師も子供も楽しんだということが
あるのではないか。
授業はちっとも進まなかった,でもおもしろかった,
という授業である。

こういう授業の中で,教師と子供の間に
純粋な知的な空間が生まれているということもあるのである。

むしろ,これは「よい授業」という枠を超えているのかもしれない。
教科書もカリキュラムもなく,
ただ大人が子供に教えるという,
人間が長い歴史の中で自然に行なってきた教育の本質的な形が,
授業という場に現れたのかもしれない。

近代学校は合理的であることを期待されている機関である,
がしかし,そのなかに,
合理的である以前の人間の営みがなければ,
学校の存在価値はない。

最近は,学校経営そのものにおいても,
PDCAサイクルの重要性が言われるようになって久しいが,
学校というところは,目標を設定し,
目標を達成できたかという合理的な考え方では
割り切れないところに価値があり,
それがもっとも大切なところであるということを,
教育に携わる者はもう一度考え直すべきであろう。

ほめすぎ

2011-06-19 | 教育
近頃の学校,とくに初等教育の世界では,
とかく,「ほめる」ことが重視されている。

よく,「どの子供にもよいところがあるから,
それをみつけてほめましょう」というようなことが言われる。

しかし,これは少し行き過ぎではないだろうか。
探して見つけなければならないような美点は,
本当は「ほめる」に価しないのではないだろうか。

「ほめる」という行為は,
他者の行為が賞賛に価する場合に行われることであって,
賞賛に値する行為というのは,自ずから客観的に見ても
優れた行為であるというのが前提であろう。

とはいっても,「ほめる」という行為を,
教育効果を高める目的を持って,
意図的に行う場合においては,
必ずしも客観的に見て賞賛に価するというほどではない
子供の美質について行われることはあるであろう。

しかし,それも限度がある。
あくまでも,「ほめる」とか「しかる」というのは,
子供を社会的存在として成長させるための行動規制の意味を持っている。

だから,あまり「ほめる」ことを安易に行なっていると,
社会的に何が優れた行為であるのかというのが
子供にとって見えにくくなってくる。

そして,「ほめられない」自分を,
認めることができなくなる。

よいところを見つけてもらって,
いつもほめてもらってきた子供が
成長して大人になってからも,
ほめてもらえることを求めるようになる。

「がんばったのに,ほめてもらえない」などという不満を感じる
若者も増えてきているように思う。

社会は結果で判断し,プロセスをいちいちほめるようなことはない。

その社会の在り方に関して,不満を持ち,自信を失う若者がいるとすれば,
それは,初等教育の「ほめる」教育の在り方にも一因があるのではないだろうか。