みに・ミーの【みにスケール模型日記】

ミニスケールAFVを中心とした模型日記です。

MiG-15、VHFアンテナの接着位置 その1

2014年06月30日 00時00分56秒 | 航空機(露・軍用機)
 またMiG-15のディテールの話に戻ります。ごちゃごちゃ言っていると何の話か分からなくなりそうなので、まず問題の所在を申し上げますと、MiG-15の背中のVHFアンテナはどの位置にどの向きに付くのが正しいか、ということです。
 トップ画像は、またまた分かりにくい画像ですが、タミヤのMiG-15bisの胴体後半左右のパーツを合わせてみたところです。赤い矢印をつけたのがVHFアンテナです。実物は中央がややふくらんだ板状をしています。ご覧のようにタミヤのパーツは胴体とアンテナが一体成形になっています。だから、胴体接着後のペーパーがけの便利を考えて、一旦アンテナをカットしておいて後で再度取り付ける、という人が多いのではないかと思います。ならば、せっかく再度接着するならできるだけ正しい位置に、とやはり思いますよね。
 タミヤのパーツのアンテナ根元あたりを拡大するとこのようになっています。

アンテナは胴体軸線よりやや左側にオフセットされていることが分かります。他の角度から撮影すると、こんな感じです。



アンテナの基部には同心円状の筋彫りがあります。ただタミヤのパーツのままだと、アンテナ基部はその同心円の中心にはありません。タミヤがわざわざ金型の形状を工夫して、アンテナを接着面からやや内側にオフセットして一発抜きしているということは、アンテナは胴体の中央軸線上ないのは確かですよね。では実機はどのようになっているんでしょうか。
 MiG-15は結構有名な機体で、しかも旧ソ連東欧や中国の博物館のみならず、アメリカなどにも実機がたくさんあります。個人所有のフライアブルの機体まで。そうすると、ここはどうなっているんだろうと見たいところがピンポイントで分かる写真は、書籍やネットにたくさんありそうですよね。ところが、このアンテナの取り付け位置がばっちり写っている写真がなかなかなくて苦労しました。

王海著「我が闘いの生涯」(下)02

2014年06月28日 12時40分05秒 | 書籍
 ちょうど二箇月を過ぎたころ、また勝利を知らせる速報が来た。8月23日、空軍航空兵団某連隊の飛行主任張文逸が、浙江省江舟山地区で米軍のP4M-1Q電子偵察機〔P4M-1 マーケーターの電子戦用機〕一機を撃墜したのである。これは我が師団の司令員にとって大きなショックであった。
 外圧を力に変えるべく、パイロットが仲間の部隊の撃墜経験を学び、夜間に侵入する敵を攻撃する方法を繰り返し研究し、指揮官や管制官からパイロットに至るまで皆が必要な準備を行うよう手配した。敵の出現に備えて正確に、機を逸せず、以心伝心で協力して敵機を攻撃できるようにしたのである。
 その時はついに来た。1956年11月10日、我が師団の夜間戦闘の当直任務にあったパイロットは、夕食を終えると、車に乗って駐機場へ到着し、機体の点検を行い、当直の準備をすませた。気象台の予報官が最新の気象予報を送ってくる。こうした複雑な気象には、敵機は出撃し慣れている。パイロット達は「今夜は戦闘があるかも知れないな。高度を保って警戒しなければ」と言う。私も早めに指揮所に行き、各方面の状況を納得するまで点検確認した。
 暗くなってしばらくして、上級指揮所からの敵情報告を受け取った。20時43分南日島上空に敵大型機一機を発見、高度2000メートル、方位300度。21時11分福州西北28キロメートル地点で大陸に侵入、速度毎時330~350キロメートル。21時55分、敵機が周寧の北20キロメートルに達した時、我が師団は命令を受けてMiG-17F一機を第一級警戒態勢に置いた。私はすぐさまこの命令を当直のパイロットに伝えた。

王海著「我が闘いの生涯」(下)01

2014年06月15日 19時58分48秒 | 書籍
※本稿は雑誌『中国空軍』の2007年5号から6号にかけて連載された王海著「我的戦闘生涯」の翻訳である。5月号が(上)、6月号が(下)となっている。
※(上)は朝鮮戦争の記録であった。以下訳出する(下)は台湾海峡の戦闘を中心とした記録である。
※王海には同じタイトルの単行本『我的戦闘生涯』(中央文献出版社、2000年、北京)があるが、本稿とは別物である。単行本についてもこれに続いて翻訳したい。
※全体的には、直訳・逐語訳をできるだけ避け、日本語として自然に読めるよう適度に意訳している。
※本翻訳には政治的意図は全くない。原文中には中国共産党を賛美する語句も出てくるが、それはそのまま翻訳しておく。また原文中に「我が国」とある場合は誤解を避けるため「中国」と訳しておく。
※軍事用語、特に兵器名・階級名・編成名などについてはやや複雑な面があるので、翻訳しつつ検討し、適宜修正したい。
※必要に応じて〔訳注〕を加える。





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当時空中や地上で勇敢に戦った将兵のことを忘れないで欲しい。
彼等は自分自身の青春と血と汗を以て、誰に知られることもなく戦い、
祖国の神聖な領空を侵犯から守り、
そして平和な環境の中で働き生きることができるように、
各民族の人民を守ったのである。
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「我が闘いの生涯」(下) 王海

夜空の戦い
 1949年に台湾に逃れて後、国民党空軍は直ちに夜間に航空機を出動させて大陸の擾乱を開始し、特殊工作員を降下させる、宣伝ビラを散布する、大陸に潜伏する残存勢力に補給を行う等の破壊活動を行った。1954年以前、そうした夜間に大陸に進入し妨害行為を行う航空機は毎年平均100機前後あった。当時、人民空軍には夜間作戦の能力を備えた戦闘機パイロットは少なく、迎撃を実行する力はなかった。阻止のため離陸することはあったが、指揮誘導などの技術に限界があり、目標を発見できないでいた。
 1956年になると、夜間作戦能力を備えたパイロットも増えてきた。彼らは曳航標的の射撃や目標の目視発見の訓練を受けており、それと同時にレーダー部門の調整も行われ、主要作戦基地を中心とする基礎的な誘導網が形成された。模擬演習を通じて、指揮誘導の成功率も向上した。そのため、この一年で夜間の敵機撃墜3機の成果を上げることができた。
 最初の夜間敵機撃墜は1956年6月23日午前1時のことであった。某航空兵団団長の魯が、国民党空軍のB-17一機を撃墜したのである。敵機は江西省広豊県嶺底郷内に墜落し、国民党空軍パイロット葉拯等8人が戦死した。
 仲間の部隊の敵機撃墜を私は心から祝福したが、同時に大きな圧力を感じた。夜間戦闘の当直を担当して以来私は何度も出撃したが、敵機の影さえも捉えることができていないからである。師団長として(この月 ―1956年6月、中央軍事委員会の命令を受け、師団長方槐が軍団副司令に昇進、私が師団長に任命された)気持ちは沈んだ。戦果を挙げられなければ面目も立たないし、また軍部内の重用と信任に対して申し訳もない。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(上)10

2014年06月07日 17時54分25秒 | 書籍
 こちらの翻訳も随分間が空いてしまいました。王海著「我が闘いの生涯」(上)の翻訳も再開したいと思います。

王海著「我が闘いの生涯」(上)10
 私の後方に着けていた僚機の馮全民はこの状況を見て、「105号、脱出せよ!脱出せよ!」と叫んだ。と同時に敵機に向けて激しく発砲し、敵機を離脱させ、私を包囲から逃してくれた。
 私の操縦する26号機は損傷が激しく、既に操縦が困難となり、残念ながら放棄せざるを得ない。8000メートルの高度で、脱出の手順通りに座席に座り直し、両足を縮め、射出ハンドル握り、キャノピーを投棄し、ドンという音とともに脱出した。
 空戦はまだ続いている。目を血走らせた戦友達はなりふり構わず敵機に突っ込んで行き、連続して発砲した。この時白いパラシュートにぶら下がった私はもはや丸腰で、自分を守る力さえ失っていた。ただ飛行機の轟音や、ドンドンという発砲音や、ヒューヒューという風の音が耳元で一つに混じり合うのみだった。
 抗美援朝戦争に於いて、私は編隊を率いて何度も出撃し、勝利を得て来たが、この時の空戦は最も悔いの残るものであった。今に至るも後悔してもしきれない思いである。長年にわたって私は、米軍のどの部隊が、そしてどのパイロットが、私を撃墜したのか知りたいと願ってきた。過去に於いて米国と中国は敵対関係にあり、互いの往来もなく、調べる術はなかった。米中両国に国交ができて、外交上の往来も増え、私自身も米国を訪問し、ついに当時、遼寧省鳳城県大堡鎭東南上空の戦域で私と戦ったのは、米軍第67大隊〔67th Fighter Squadron〕であり、私を撃破したパイロットはジェームズ・ハガーストーム少佐〔Maj. James Hagerstrom〕とジョン・ミルトン中尉〔Lieut. John Milton〕であったことが判明した。今日我々はみな高齢となった。当時の我々は不倶戴天の敵であったが、今は干戈を化して玉帛となし〔武器の代わりに玉や絹を贈り物にする、の意〕、友人となることができよう。中国には「打たずして交わりを成さず」〔喧嘩をして初めて仲良くなれる〕という俗言がある。米中両国国民が友好関係を築き、それぞれの英知を十分に発揮して、倶に人類文明に貢献することを願う。(作者:元空軍司令員)



※王海著「我が闘いの生涯」(上)の翻訳は以上である。繰り返すが、本翻訳には政治的意図は何ら存在しない。内容的に全て真実とは言えまいが、中国側からの朝鮮戦争の記録も、研究上の資料として訳しておく価値があると考えるのみである。これに続いて「我が闘いの生涯」(下)も翻訳したい。

MODELSVITのI-3U (I-420) その2

2014年06月04日 00時07分18秒 | 航空機(露・軍用機)
 MODELSVITのI-3U、ホビーテラの画像ではもしかして実機写真が箱絵に使われているのかと思いましたが、実物を見るとCGのようです。べつにそれはいいのですが、ちょっと面白かったのは箱の側面です。このシリーズのラインナップがサムネイル型に並んでいるんですね。そう言えば最近の製品にはあまりありませんが、我々が子供の頃のプラモデルの箱は、タミヤにしても他のメーカーにしても、箱の側面にシリーズの他の製品の広告が載っていましたよね。私がよく覚えているのは、イマイのサンダーバードやキャプテンスカーレット、それからニットーの1/76ジオラマシリーズです。子供心に、ここに並んでいるラインナップにはしびれました。まあ親からすれば、これのお陰でシリーズの製品を次々欲しがるので嫌がっていたかもしれません。
 MODELSVITの箱側面には、"Heavy MiGs" Seriesとして、I-7U、I-75、Ye-150、Ye-152A、Ye-152Mが並んでいます。え?これ全部キットが出るの? と思っていたら、組み立て説明図の最後のページにも、より詳しいラインナップが載っていました。

ただでさえ保管場所が無いのでめったなことでは余計なものを買わないようにしているのに、ジェット創生期の鉄のカーテンの向こうの機体をこうも並べられると、買ってしまうじゃねーかよー。子供の頃と同じ、模型メーカーの罠にはまってしまった。
 ホビーテラからは、箱は未組み立ての平らなまま荷造りして送ってきます。その方が小包が小さくまとまります。だからこのキットの箱はこんな感じです。もちろんパーツは傷まないように全体はしっかりした箱に入ってきます。

ラインナップが揃うのはまだ先のことだとは思いますが、しかしこんなの、ちょっと前まではみんなレジンキットアイテムだぞ。

MODELSVITのI-3U (I-420) キター!

2014年06月02日 23時56分14秒 | 航空機(露・軍用機)
 MODELSVITの新製品、I-3U(I-420)、キリル文字でИ-3Уがホビーテラから届きました。国内のホビーサーチにも今日、新製品予約のページがアップされたようですね。ホビーテラから荷物が届いたのが一昨日ですので、さすが地元通販は早い。ホビーテラで一個だけ買うのは送料がもったいないので、他にも幾つか買いましたが、またそれは追々紹介します。一個だけ、透明キャノピーパーツが割れていたんですが、メールを出したらすぐ対応してくれました。そういうところはホビーテラはちゃんとしていますね。ウクライナが平和でありますように。
 さてこのI-3Uという飛行機、あちこちがMiG-19に似ているので、MiG-19の兄貴分、と言うか、この飛行機が単発だったのを双発にしてMiG-19になったくらいに思っていたのですが、実際はそんなに近い関係ではないようです。
 まだ仮り組みもしていないのですが、とりあえず胴体パーツを切り出して、それをSu-7とMiG-19と並べて比較してみました。上が同じMODELSVITのSu-7、真ん中が今度の新製品I-3U、下がBilekのMiG-19です。I-3UはMiG-19に比べてかなり大型の機体であることが分かります。Su-7は単座機としてはかなり大型の機体なんですが、そちらに近いイメージです。これはMiG-19が細めのジェットエンジンの双発を狙ったのに対して、むしろ太めのジェットエンジンを単発で使うというもので、かなり異なる機体ですね。主翼の後退角と境界層板が似ているだけみたいな感じです。ちなみにキットではこの境界層板はプラパーツの別部品になっています。別部品だから薄く仕上がりそうです。
 ついでに、写真一番下のMiG-19ですが、MiG-19と言えばKPのものがよいのでしょうが、作りかけですぐ引っ張り出せるKPの箱がなかったので、手近にあったBilekのものを並べました。それにしても、バリエーションのために機首がごっそり別パーツになっている上に、その合わせが非常に悪いので、さてこれからガリガリ盛って削ってをやらなければならないな~、というところで放置しています。