みに・ミーの【みにスケール模型日記】

ミニスケールAFVを中心とした模型日記です。

王海著「我が闘いの生涯」(下)06

2014年10月01日 00時05分44秒 | 書籍
 1954年2月、空軍はしばしば文書を出し、基礎課目と複雑な上級課目の訓練を強化し、努力して「登坂」し〔原文は「爬坡」。坂道を登ること〕、技術の最高峰を目指して登れと、各部隊に要求してきた。その後「技術登坂」という言葉が、航空兵部隊が複雑な上級課目の訓練にいそしむ様子の比喩となったり、スローガンとして使われたりした。当時の「技術登坂」は主に、夜間や複雑な気象における操縦技術訓練と、空戦・射撃・爆撃を重点とする戦闘技術訓練、という二方面をめぐって展開された。
 その頃の訓練は実に熱気に満ち、毎日朝早くから夜中まで、大風や雷雨でない限りは、常に空に飛行機が飛んでいる状態だった。飛行訓練室の中やパイロット宿舎前の空き地では、パイロットたちが何度も地上訓練を行っていた。当時叫んでいたスローガンに「地面で苦練すれば、空中で精飛す」というのがあった。飛行課目の限られた時間内に最高の水準に達し、一度飛ぶ毎に一歩前進する、という目的を果たすことが求められていたのである。
 我が師団は数年の技術訓練を経て、操縦技術と戦闘技術の両面において長足の進歩を遂げた。しかし複雑で常に変化する空戦において柔軟に技術を運用し、兵器の性能を十分に発揮させ、「敵を撃滅し、自己を守る」という目的を達するには、さらに戦術能力を高める必要があった。
 我々は引き続いて戦術訓練を展開した。この訓練は主に、飛行訓練に戦闘の設定を与える方法で行われた〔原文は戦闘背景。単に飛行訓練を行うのではなく、そこに筋書きを設定するという意味か〕。訓練実施時にあらかじめ戦術上の設定を考慮した上で準備しておくことを強調し、さらに戦術上の設定をできるだけ部隊の受け持つ作戦任務と関連づけ、作戦対象の戦術的特徴に対応して自分たちの戦術行動と作戦策定を研究しておくよう要求したのである。理論と実際を確実に結びつけるため、我々自身も何度も戦術演習を策定した。
 「技術登坂」訓練を経て、我が師団全体の技術・戦術の水準は更に一段階上がり、部隊の戦闘力は目に見えて高まっていた。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(下)05

2014年09月27日 07時14分21秒 | 書籍
「技術向上」

 航空機は近代的科学兵器である。その飛行能力と戦闘能力を十分に発揮させるには、パイロットに対して正規の厳格な飛行訓練を施さなければならない。事実に即して言うならば、我々のパイロットは訓練に於いて先天的に不足な部分があった。空軍はその創設の初期にちょうど朝鮮戦争勃発という自体に遭遇し、抗美援朝作戦〔美国はアメリカのこと。抗美援朝はアメリカに対抗し朝鮮を援助する、の意で、朝鮮戦争の別名として用いられる〕上の必要により、航空学校の飛行学生養成の段階から速成式のやり方を採用した。実際の飛行時間数十時間で、操縦に最低限必要な基本技術を身につけたら、直ちに航空兵部隊に配属される。パイロット、そして航空指揮官までも、技術・戦術の系統的訓練を受けることができず、いくつかの重要な基礎課目も実施する時間がなく、高度で複雑な技術課目は大多数の者が未経験であった。
 抗美援朝戦争の期間、大部分の戦闘航空兵部隊は昼間の平易な気象条件下の作戦任務しか実行できなかった。私の手元の統計資料によれば、1953年末に至るまで、戦闘航空兵部隊な昼間の複雑な気象条件に於ける大隊戦闘訓練課目の2.94%しか完遂しておらず、夜間の平易な気象に於ける戦闘訓練課目の7.05%しか完遂していない。我が師団は最も早くに編成された戦闘航空師団であったが、この時期に複雑な気象に於ける訓練の中の一般課目を実施し始めたばかりであり、夜間訓練は始まってもいなかった。こうした技術的状況は、戦闘航空部隊が自らの力を発揮する上で深刻な障害となっていた。ある時は、敵機が来襲したことが明らかなのに、技術水準の附則から、離陸迎撃ができないことがあった。またある時には、空中で明らかに有利な態勢にありながら、技術の不十分さゆえに受け身の立場に陥ったりもした。敵機との格闘戦のさなかに、動作の未熟さと射撃技術の不足のゆえに、しばしば弾丸を撃ち尽くし、命中弾もない内に戦闘能力を失い、反対に敵機の攻撃を受ける目に遭ったりもした。このため、上の者から下の者に至るまで、訓練杏花の必要性ととその緊急性をつくづくと認識することになったのである。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(下)04

2014年07月23日 07時08分04秒 | 書籍
 戦闘機は瞬く間に前進する。地上との無線交信を聞いていると、私の心も空を飛んでいるような気になる。戦闘が速く始まらないかとじりじりしていた。
 張滋は「攻撃」の命令を聞くと、冷静に操縦を続け、発砲のための有効距離に達するやゆっくりと発射ボタンを押した。一本また一本と火の筋が敵機に向かって撃ち出される。無駄弾も無く、敵機に命中した。
 38分15秒、張滋から勝利の知らせが入る。「敵機の左翼が発火、落ちて行きます!」
 「よし、よくやった!」我は我慢できずに言った。指揮所は喜びに沸いた。
 39分30秒、指揮所は「その場で旋回し、敵機の墜落を確認せよ」と命じた。
 「敵機は既に墜落、大きな火の手が上がっています」張滋はその場で一周旋回した後報告して来た。
 22時41分15秒、張滋は命令を受けて帰途につき、指揮所の誘導により無事着陸した。
 我々は直ちに彼を迎えに行き、彼の敵機撃墜を祝った。
 翌日の午前、敵機は浙江省蕭山の東北3キロ地点に墜落したことが明らかとなった。それはC-46型特務機で、残骸の付近で9人の遺体が発見された(C-46の乗員は通常4人)。さらに74元の現金があり、飛行士の日誌には、合い言葉に「花火と傘を使用のこと」と記されていた。このことから考えるに、この航空機はスパイを降下させようとしていた可能性が排除できない。
 我が師団は防空作戦において、夜間侵入の敵機を初めて撃墜したことになる。この勝利は、我が師団の戦闘力が新たな段階に達し、昼間のみならず、夜間においても敵機を撃墜できるようになったことを示していた。全師団の戦闘指揮者を鼓舞し、飛行能力と戦闘能力を兼ね備えた全天候戦闘部隊を作り出すべく努力せしめることとなったのである。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(下)03

2014年07月10日 00時01分47秒 | 書籍
 事前に決めてあった戦闘当直の順番により、師団飛行主任の張滋が慣れた様子で飛行用装備を身につけ、素早く飛行機に搭乗して、22時07分に準備を完了した。敵の機種は不明で、大型航空機としか分かっていなかったので、張滋は照準器の目標翼長設定ダイヤル〔原文は「翼展刻度」。wingspan adjustment dial。距離何メートルで機影が照準器上の目盛りの大きさに見えるかを、目標の大きさによってあらかじめ設定しておく〕を35メートルに合わせた。この時敵機は連続して国境を侵犯しており、22時16分浙江省永康の北26キロメートル地点の上空に達した。方位10度、高度3000メートル、速度毎時300魯メートルである。軍指揮所の命令を受けて、我が方の機も直ちに離陸した。地上管制員の誘導のもと、敵機の飛来する方向に向かったのである。
 任務分担によれば、離陸は師団指揮所の誘導により、そして我が機が航路に入ったら、軍指揮所が誘導を引き継ぐ。敵との接触が間近となると、レーダー誘導ステーションの誘導に変わる。この戦闘は、空中と地上の師団・軍レベルのとの緊密な指揮連携により、夜間の複雑な気象のもとで敵機を撃墜した典型的なケースとなった。
 我が方の機は22時16分30秒に離陸し、師団指揮所の誘導により方位220度で飛行し、雲を抜けて高度3000メートルに達し、戦闘コースに乗った。22分25秒、軍指揮所が誘導を引き継いだ。
 刻一刻と時間は流れ、司令室内は静まりかえっている。私と当直の誘導員達は息を殺し、瞬きもせずに、テーブル上に広げた敵味方の航跡表示を見つめて、この得がたいチャンスをパイロットが逃さぬように念じていた。
 パイロットは地上の誘導に従って敏速に操縦し、じりじりと目標に近づいていた。
 22時37分45秒、張滋は薄雲の向こうに点滅する四つの光を見つけ、「敵機発見、攻撃許可を請う!」と興奮して叫んだ。
 「攻撃せよ!」軍指揮所は直ちに命令を下した。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(下)02

2014年06月28日 12時40分05秒 | 書籍
 ちょうど二箇月を過ぎたころ、また勝利を知らせる速報が来た。8月23日、空軍航空兵団某連隊の飛行主任張文逸が、浙江省江舟山地区で米軍のP4M-1Q電子偵察機〔P4M-1 マーケーターの電子戦用機〕一機を撃墜したのである。これは我が師団の司令員にとって大きなショックであった。
 外圧を力に変えるべく、パイロットが仲間の部隊の撃墜経験を学び、夜間に侵入する敵を攻撃する方法を繰り返し研究し、指揮官や管制官からパイロットに至るまで皆が必要な準備を行うよう手配した。敵の出現に備えて正確に、機を逸せず、以心伝心で協力して敵機を攻撃できるようにしたのである。
 その時はついに来た。1956年11月10日、我が師団の夜間戦闘の当直任務にあったパイロットは、夕食を終えると、車に乗って駐機場へ到着し、機体の点検を行い、当直の準備をすませた。気象台の予報官が最新の気象予報を送ってくる。こうした複雑な気象には、敵機は出撃し慣れている。パイロット達は「今夜は戦闘があるかも知れないな。高度を保って警戒しなければ」と言う。私も早めに指揮所に行き、各方面の状況を納得するまで点検確認した。
 暗くなってしばらくして、上級指揮所からの敵情報告を受け取った。20時43分南日島上空に敵大型機一機を発見、高度2000メートル、方位300度。21時11分福州西北28キロメートル地点で大陸に侵入、速度毎時330~350キロメートル。21時55分、敵機が周寧の北20キロメートルに達した時、我が師団は命令を受けてMiG-17F一機を第一級警戒態勢に置いた。私はすぐさまこの命令を当直のパイロットに伝えた。

王海著「我が闘いの生涯」(下)01

2014年06月15日 19時58分48秒 | 書籍
※本稿は雑誌『中国空軍』の2007年5号から6号にかけて連載された王海著「我的戦闘生涯」の翻訳である。5月号が(上)、6月号が(下)となっている。
※(上)は朝鮮戦争の記録であった。以下訳出する(下)は台湾海峡の戦闘を中心とした記録である。
※王海には同じタイトルの単行本『我的戦闘生涯』(中央文献出版社、2000年、北京)があるが、本稿とは別物である。単行本についてもこれに続いて翻訳したい。
※全体的には、直訳・逐語訳をできるだけ避け、日本語として自然に読めるよう適度に意訳している。
※本翻訳には政治的意図は全くない。原文中には中国共産党を賛美する語句も出てくるが、それはそのまま翻訳しておく。また原文中に「我が国」とある場合は誤解を避けるため「中国」と訳しておく。
※軍事用語、特に兵器名・階級名・編成名などについてはやや複雑な面があるので、翻訳しつつ検討し、適宜修正したい。
※必要に応じて〔訳注〕を加える。





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当時空中や地上で勇敢に戦った将兵のことを忘れないで欲しい。
彼等は自分自身の青春と血と汗を以て、誰に知られることもなく戦い、
祖国の神聖な領空を侵犯から守り、
そして平和な環境の中で働き生きることができるように、
各民族の人民を守ったのである。
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「我が闘いの生涯」(下) 王海

夜空の戦い
 1949年に台湾に逃れて後、国民党空軍は直ちに夜間に航空機を出動させて大陸の擾乱を開始し、特殊工作員を降下させる、宣伝ビラを散布する、大陸に潜伏する残存勢力に補給を行う等の破壊活動を行った。1954年以前、そうした夜間に大陸に進入し妨害行為を行う航空機は毎年平均100機前後あった。当時、人民空軍には夜間作戦の能力を備えた戦闘機パイロットは少なく、迎撃を実行する力はなかった。阻止のため離陸することはあったが、指揮誘導などの技術に限界があり、目標を発見できないでいた。
 1956年になると、夜間作戦能力を備えたパイロットも増えてきた。彼らは曳航標的の射撃や目標の目視発見の訓練を受けており、それと同時にレーダー部門の調整も行われ、主要作戦基地を中心とする基礎的な誘導網が形成された。模擬演習を通じて、指揮誘導の成功率も向上した。そのため、この一年で夜間の敵機撃墜3機の成果を上げることができた。
 最初の夜間敵機撃墜は1956年6月23日午前1時のことであった。某航空兵団団長の魯が、国民党空軍のB-17一機を撃墜したのである。敵機は江西省広豊県嶺底郷内に墜落し、国民党空軍パイロット葉拯等8人が戦死した。
 仲間の部隊の敵機撃墜を私は心から祝福したが、同時に大きな圧力を感じた。夜間戦闘の当直を担当して以来私は何度も出撃したが、敵機の影さえも捉えることができていないからである。師団長として(この月 ―1956年6月、中央軍事委員会の命令を受け、師団長方槐が軍団副司令に昇進、私が師団長に任命された)気持ちは沈んだ。戦果を挙げられなければ面目も立たないし、また軍部内の重用と信任に対して申し訳もない。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(上)10

2014年06月07日 17時54分25秒 | 書籍
 こちらの翻訳も随分間が空いてしまいました。王海著「我が闘いの生涯」(上)の翻訳も再開したいと思います。

王海著「我が闘いの生涯」(上)10
 私の後方に着けていた僚機の馮全民はこの状況を見て、「105号、脱出せよ!脱出せよ!」と叫んだ。と同時に敵機に向けて激しく発砲し、敵機を離脱させ、私を包囲から逃してくれた。
 私の操縦する26号機は損傷が激しく、既に操縦が困難となり、残念ながら放棄せざるを得ない。8000メートルの高度で、脱出の手順通りに座席に座り直し、両足を縮め、射出ハンドル握り、キャノピーを投棄し、ドンという音とともに脱出した。
 空戦はまだ続いている。目を血走らせた戦友達はなりふり構わず敵機に突っ込んで行き、連続して発砲した。この時白いパラシュートにぶら下がった私はもはや丸腰で、自分を守る力さえ失っていた。ただ飛行機の轟音や、ドンドンという発砲音や、ヒューヒューという風の音が耳元で一つに混じり合うのみだった。
 抗美援朝戦争に於いて、私は編隊を率いて何度も出撃し、勝利を得て来たが、この時の空戦は最も悔いの残るものであった。今に至るも後悔してもしきれない思いである。長年にわたって私は、米軍のどの部隊が、そしてどのパイロットが、私を撃墜したのか知りたいと願ってきた。過去に於いて米国と中国は敵対関係にあり、互いの往来もなく、調べる術はなかった。米中両国に国交ができて、外交上の往来も増え、私自身も米国を訪問し、ついに当時、遼寧省鳳城県大堡鎭東南上空の戦域で私と戦ったのは、米軍第67大隊〔67th Fighter Squadron〕であり、私を撃破したパイロットはジェームズ・ハガーストーム少佐〔Maj. James Hagerstrom〕とジョン・ミルトン中尉〔Lieut. John Milton〕であったことが判明した。今日我々はみな高齢となった。当時の我々は不倶戴天の敵であったが、今は干戈を化して玉帛となし〔武器の代わりに玉や絹を贈り物にする、の意〕、友人となることができよう。中国には「打たずして交わりを成さず」〔喧嘩をして初めて仲良くなれる〕という俗言がある。米中両国国民が友好関係を築き、それぞれの英知を十分に発揮して、倶に人類文明に貢献することを願う。(作者:元空軍司令員)



※王海著「我が闘いの生涯」(上)の翻訳は以上である。繰り返すが、本翻訳には政治的意図は何ら存在しない。内容的に全て真実とは言えまいが、中国側からの朝鮮戦争の記録も、研究上の資料として訳しておく価値があると考えるのみである。これに続いて「我が闘いの生涯」(下)も翻訳したい。

王海著「我が闘いの生涯」(上)09

2013年12月01日 17時57分39秒 | 書籍
 やや経って、第二小隊3号機の周金声が小隊長機魏双禄に「左後方より敵機4機が接近中!」と知らせてきた。
 魏双禄は後方に味方はおらず、接近中の機体は敵機であると分かっていたので、直ちに私に「105号、左方向に敵機4機を発見!」と報告して来た。
 魏双禄の報告を聞いて私は「そちらで攻撃せよ。当方は援護する!」と命令を発した。続いて上昇角を付けて旋回し、第二小隊の支援に向かった。90度まで旋回した瞬間、小隊3号機の羅滄海が叫んだ。「105号機水平に戻せ、後ろに敵機だ!」
 横目で見ると敵機は既に接近していた。私が水平に戻した時、敵機一機が私の前方に飛び出した。後ろの敵機の脅威を気にすることもなく、直ちに前方の敵機に向けて発砲すると、敵機は下に待避した。この時右下方に更に2機の敵機を発見したので、再び機首を転じて敵機に向けて機関砲の発射ボタンを押した。激しい機動のため、残念ながら照準が安定せず、二度の射撃ともに命中しなかった。
 前方の敵機を攻撃しているさなか、斜め後方から上昇して来た敵機4機が旋回の内側に回り込んで私を攻撃しようとする。羅滄海が僚機を率いて支援に向かって来たため、気づいた敵機は離脱した。この時私の機体は既に被弾しており、右翼が損傷して振動していたが、まだ操縦は可能であった。私は隠語で「胡琴(機体に被弾)!」〔訳注:我被弾セリを表す無線通話コード。なお「胡琴」は日本語で通常「胡弓」と呼ばれる楽器〕を知らせながら同時に左旋回降下して、ここからほど近い大堡飛行場に向けて高度を下げ始めた。高度6000メートルまで降下した時、2機の敵機から3度の射撃を受けた。しかし幸い命中しなかった。敵機の攻撃から逃れて高度を得るために、私は右旋回して上昇したが、速度の優勢を失ってしまい、敵機がまた迫ってきた。敵機は下方から攻撃して来る。エンジンと左翼が損傷し、操縦席にも濃い煙が入って来る。たちまち視界を失う。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(上)08

2013年10月19日 19時47分57秒 | 書籍
忘れがたき教訓
 抗美援朝戦争〔朝鮮戦争の中国側呼称。美は美国、アメリカのこと。亜美利加と漢字を当てたことから〕において私は、本大隊を率いて15対0の戦績を挙げた。私本人の戦績表には撃墜撃破9機が記され、被撃破の記録が記されてはいなかった。しかし残念ながらこの記録は終戦まで保持できなかったのである。
 1953年3月27日、私は敗北を喫した。この日の午後15時19分、空軍合同指揮所より、第3師団第9連隊は8時離陸、敵機を迎撃、との指令を受けた。私はその時、瀋陽の北陵飛行場で待機しており、命令を受けて直ちに8機のミグ15bisを率いて出撃した。離陸後、左に旋回して上昇しながら、集合して編隊を組む。清河城上空で高度1万メートルにまで上昇し、寛甸以北で戦闘区域に近づいた頃、私は「増槽を落とせ」の命令を出した。この時の高度は1万2千メートルに達していた。編隊が寛甸上空に到達した時、「右旋回」の命令を発し、鴨緑江と平行に進んだ。
 この日、空は雲もなく晴れ渡って、視界は10キロに及んだ。四方を見渡すに、未だ敵機の影は見えない。我々8機は前と後ろの2小隊に分かれ、私は第一小隊を率いて前を飛び、第二小隊は後ろに従った〔訳注:原文は「中隊」。ここは8機を4機ずつの編成に分けたという話であり、4機の編隊を飛行中隊とは普通呼べないので、仮に小隊と訳しておいた〕。編隊が大堡の東南上空に近づいたとき、第二小隊4号機の周振芳が左前方に4機の機影を発見し、小隊長機の魏双禄に報告を行った。魏はそれが前方を飛行中の長機小隊だと考え、すぐに「105号機だぞ」と答えた(105号機は私の番号で、ここでは私の率いる長機小隊を指す)。
 実は、周振芳の見たのは私の機体ではなく、敵機だったのである。魏双禄の不注意により、敵に先んじて攻撃位置に着くというチャンスを逃してしまったのだ。(続)

王海著「我が闘いの生涯」(上)07

2013年09月16日 00時01分03秒 | 書籍
 焦景文の援護の下、私は加速して追撃し、一連射で前方の米軍機一機に損傷を与えた。それと同時に焦景文も発射ボタンを押し、私を攻撃しようとしていた一機を撃墜した。
 この時、僚機の慌てた声が聞こえてきた。「102号、待避せよ!後方に敵機!」返答するまもなく私は即座に機首を右に旋回させた。右主翼下を光の筋がかすめて行き、敵の弾丸は幸い命中しなかった。
 焦景文は長機の安全のため、後ろから次々と撃ってくる弾丸の何本もの光の帯をものともせず、私の後ろで右に左に身を挺して援護し、私の機を引き起こさせてくれた。突然、焦景文の機が激しく揺れるのが見えたと思うと、コクピットに火の手が上がった。私は「103号、脱出せよ!、すぐに脱出せよ!」と叫びながら、同時に僚機の上方に出て、上昇降下を繰り返しつつ、6回の連続攻撃を行い、米軍機一機を上空で爆発させ、焦景文を包囲していた米軍機を追い払った。焦景文が脱出後米軍機の攻撃を受けないよう、私は上空で旋回し援護した。
 その一方で馬保堂と劉徳林のペアが、焦景文を撃墜したその米軍機の進路を遮っていた。馬保堂は我が身を顧みず、6機の敵機の撃ち出す段幕をすり抜けて、その米軍機を撃墜した。これを見た米軍の「油挑子」〔訳注:F-84のこと〕6機はすぐさま馬保堂を包囲する。
 長機の危機を見た劉徳林は機の向きを変え、数連射し、敵機を自分の方に引きつけたかと思うと、突如上昇旋回し、有利な高度を占め、そして急降下してきた。二機の敵機に照準して機関砲3門を斉射すると、敵機は相前後して煙を引きながら清川江に突っ込んでいった。
 戦闘の結果、第42連隊は2機撃墜、第9連隊は7機撃墜、2機撃破のスコアを上げた。我が第1大隊は仲間の部隊の援護という作戦任務を満足にこなしたのみならず、米軍機5機撃墜1機撃破で6対1の記録を打ち立てた。これは私自身の4機目と5機目の撃墜破記録でもあり、喜ぶべきことだと言えよう。しかし非常に気がかりなのは、焦景文が脱出後どうなったか情報がないことで、彼が無事に部隊に帰還しない限り私の心は安まることはない。
 1952年1月14日、我が師団 は一巡目の実践訓練任務を終え、命令を受けて後方に下がって休息した。1951年10月21日から1952年1月14日までの86日の実戦期間中、合計で延べ2318回出動し、大小の戦闘は21回、師団全体の敵機撃墜撃破は64機、敵に16機を撃墜され、7機を撃破された。この内我が第9連隊第1大隊は敵機15機を撃墜破。全師団の成績優秀者8名の内の3名を、我が大隊が占めている。私は米軍機5機を撃墜破、私の僚機の焦景文は4機、劉徳林は3機である。このことから我が大隊は戦友達から「英雄王海大隊」と呼ばれたのである。(続)