みに・ミーの【みにスケール模型日記】

ミニスケールAFVを中心とした模型日記です。

王海著「我が闘いの生涯」(下)01

2014年06月15日 19時58分48秒 | 書籍
※本稿は雑誌『中国空軍』の2007年5号から6号にかけて連載された王海著「我的戦闘生涯」の翻訳である。5月号が(上)、6月号が(下)となっている。
※(上)は朝鮮戦争の記録であった。以下訳出する(下)は台湾海峡の戦闘を中心とした記録である。
※王海には同じタイトルの単行本『我的戦闘生涯』(中央文献出版社、2000年、北京)があるが、本稿とは別物である。単行本についてもこれに続いて翻訳したい。
※全体的には、直訳・逐語訳をできるだけ避け、日本語として自然に読めるよう適度に意訳している。
※本翻訳には政治的意図は全くない。原文中には中国共産党を賛美する語句も出てくるが、それはそのまま翻訳しておく。また原文中に「我が国」とある場合は誤解を避けるため「中国」と訳しておく。
※軍事用語、特に兵器名・階級名・編成名などについてはやや複雑な面があるので、翻訳しつつ検討し、適宜修正したい。
※必要に応じて〔訳注〕を加える。





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当時空中や地上で勇敢に戦った将兵のことを忘れないで欲しい。
彼等は自分自身の青春と血と汗を以て、誰に知られることもなく戦い、
祖国の神聖な領空を侵犯から守り、
そして平和な環境の中で働き生きることができるように、
各民族の人民を守ったのである。
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「我が闘いの生涯」(下) 王海

夜空の戦い
 1949年に台湾に逃れて後、国民党空軍は直ちに夜間に航空機を出動させて大陸の擾乱を開始し、特殊工作員を降下させる、宣伝ビラを散布する、大陸に潜伏する残存勢力に補給を行う等の破壊活動を行った。1954年以前、そうした夜間に大陸に進入し妨害行為を行う航空機は毎年平均100機前後あった。当時、人民空軍には夜間作戦の能力を備えた戦闘機パイロットは少なく、迎撃を実行する力はなかった。阻止のため離陸することはあったが、指揮誘導などの技術に限界があり、目標を発見できないでいた。
 1956年になると、夜間作戦能力を備えたパイロットも増えてきた。彼らは曳航標的の射撃や目標の目視発見の訓練を受けており、それと同時にレーダー部門の調整も行われ、主要作戦基地を中心とする基礎的な誘導網が形成された。模擬演習を通じて、指揮誘導の成功率も向上した。そのため、この一年で夜間の敵機撃墜3機の成果を上げることができた。
 最初の夜間敵機撃墜は1956年6月23日午前1時のことであった。某航空兵団団長の魯が、国民党空軍のB-17一機を撃墜したのである。敵機は江西省広豊県嶺底郷内に墜落し、国民党空軍パイロット葉拯等8人が戦死した。
 仲間の部隊の敵機撃墜を私は心から祝福したが、同時に大きな圧力を感じた。夜間戦闘の当直を担当して以来私は何度も出撃したが、敵機の影さえも捉えることができていないからである。師団長として(この月 ―1956年6月、中央軍事委員会の命令を受け、師団長方槐が軍団副司令に昇進、私が師団長に任命された)気持ちは沈んだ。戦果を挙げられなければ面目も立たないし、また軍部内の重用と信任に対して申し訳もない。(続)