”Singapore A-Go-Go”
1960年代後半から70年代はじめのシンガポールにおいていっちゃんナウかった、サイケでハレンチなエレキのポップスの、現地だけで知られていたシングルを集めた秘曲集であります。あの頃、東南アジアの真ん中で何が起こっていたのか、非常に興味を惹かれるところである。
何しろアルバムタイトルがこれである。もう、振り切れている。しかもご覧の通りのジャケである。極彩色の浮かれた世界の幻想乱れ飛ぶご乱行が見られるぞと、もうウキウキと聴いてみたのだが。後の感想は、そう単純なものでもなかったのだった。いや、音楽自体は期待通りの素っ頓狂なものであったのだが。
基本、バックは当時世界のあちこちにこんなバンドが発生していたんだろうな、ベンチャーズとかをアイドルとして。と思われるお手軽エレキ楽団である。そいつに乗って中国民歌やら、欧米ポップスや日本の歌謡曲のカヴァーなどが節操なく歌われる、まさにオモチャ箱をひっくり返したような赤道直下中華街特産、ゴタマゼ大衆音楽のお楽しみが展開される。
収められているのは女性歌手が多いが、コロコロとコブシを廻し甲高く声を張り上げる、上海歌謡の伝統に連なるような歌声がときおり見受けられもする。だが若い国シンガポールに生きる若い娘らしい自由な息吹がそいつを押しのけて顔を出し、誇らかに生の歓びを歌い上げる今日的アイドル風歌唱法が明らかに芽吹いて来ており、これには心を躍らされる。
そんな歌唱が、バックで鳴り渡る「エレキバンド」のラフなロックのリズムと相まって、新しいアジア歌謡が生まれようとしている、その胎動が確かに伝わってくる。
何だか凄い瞬間に立ち会っているような気分の高揚を味わえるのだった。内ジャケに再現された当時のレコードジャケットたちのカラフルな楽しさも、シーンの盛り上がりを伝えている。
が、そんな幸運な時代も長くは続かなかったようだ。ここで聴かれるような”シンガポールのゴーゴー”はほどなく現地の若者たちの支持を失い、ついにはレコードのプレスもなされなくなったという。
盤の解説者は、シンガポール・ゴーゴーの高揚が、東西冷戦、文化大革命の中にあった中国、ベトナムで終わりなき戦いを演じ続けるアメリカ、などというシンガポールを取り巻く時代の現実に共鳴するものとして発生し、発展したものと定義していた。そして時代は変わって行くのだ。
毛沢東は死に、アメリカはベトナムから敗走し、気まぐれな若者たちは他の楽しみを見出してレコードの売り上げは振るわなくなる。所詮は時代の仇花であった、ということか。歌手たちはもとのちっぽけなナイトクラブのステージに帰り、音楽は忘れ去られて行く。
そういわれれば、今日のシンガポールのポップスは、ここで聴かれるものの末裔とはいえない姿をしたものである訳で。
そんなシンガポール・ゴーゴーの始末記をジャケ解説で読み進むうち、アルバムの中でもひときわ可憐な歌声を聞かせてくれた歌手、Lim Lingちゃんが、とうにこの世を去っている事実などに突き当たると、なんともシンとした気分になってしまう。
何のことはない、このアルバムに収められているのは30年も40年も前の音楽であるわけで、長い時の流れのうちには、歌い手のうちの誰かが死にもするだろう。そりゃそうなのだが。
何だか彼女の死が、シンガポール・ゴーゴーの短い夏の物語を象徴するみたいに思えて来てしまうのだった。南の港に寄せる波は、あの日も今日も変わらぬが、と・・・