ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

シーシー・ライダーの午後

2010-01-18 04:51:14 | 60~70年代音楽

 ”See See Rider”by Eric Burdon & Animals

 ネット上の知り合いのE+Opさんがアニマルズの歌っていた”シーシー・ライダー”に関する話を書いておられた。何だか便乗したくなって来たので、下のようなものを書いてみた次第である。私のものはE+Opさんのそれと違って、なんの含蓄も資料的価値もないのだが。

 シーシー・ライダー。私はこの曲に最初、アニマルズ盤で接した。だから私にとってこの曲の”正しい演奏”はアニマルズのものである。
 ヒラヒラしたオルガンのフレーズをまとわり付かせながら、ドスドスと重いリズムが遠くから、まるで特撮映画における恐竜の接近音みたいに近付いてくる。エリック・バートンのヤクザな叫びが重なる。やあ、いいな、いいな。
 間奏の、ヒルトン・バレンタインのキンキンとアタマの芯に響く硬質な、やかましいギター・ソロもはた迷惑でザマミロ気分に心地良くなれた。意味の分らない文章だろうが、まあヘビメタ聴いている青少年のような心境だったわけだ。

 ストーンズの場合は”海の向こうのロンドンの不良”だったのだが、アニマルズの不良っぽさはどこか演歌に通ずるような垢抜けなさがあり、そこがカッコ悪くもあり親しみやすくも感じられていた。ゆえに、好んで聴いてはいたがあまり自慢の出来る趣味とは思っていなかった。
 プロのミュージシャンでも”アニマルズ好き”を表明していた奴なんて故・鈴木ヒロミツくらいしかいなかったろう。人気はあったバンドだから、もっと支持者がいてもおかしくないんだが。

 確かこの曲の前にヒットした”孤独の叫び”って唄は、アメリカ南部の刑務所の労働歌を集めた録音テープから見つけてきた曲の切片をメンバーがアレンジしたもの、と聞いていた。(後にグランド・ファンクがカバーした奴だ)この曲だってルーツを辿ればアメリカ大衆音楽の相当な深みに至る。
 でもそんなことには気が廻らずに、単なるポップスとして受け止めて浮かれていたのが神話時代の60年代だ。若く純粋な日々。曲の背景を知る楽しみを見出すのを、智恵の実を食べてエデンの園を追われたアダムとイブに例えたら見当ハズレか?

 高校受験の時、私は休み時間に同じ中学からその高校を受けに来た連中と、手拍子打ちながら、何度も何度も”シーシー・ライダー”を歌っていたのを思い出す。
 何が面白かったのか、ゲラゲラ笑いながら歌っていた、何度も何度も。
 私たちのほぼ全員にとってその高校は滑り止めであり、たとえ受かろうとこんな学校に入ってやるもんか、アホと思われるじゃないか、とバカにし切っていた。
 結果。その場にいた者のほとんどはその高校ではなく、第一志望校に入れたのだが、皆、入った高校の校風に馴染めず落ちこぼれ、非行化するか自閉した。私を含めて。

 やはりロックは悪魔の音楽と思う。よく分らない結論だが。



聖者のラッパに耳を塞いで

2010-01-17 01:33:07 | 音楽雑誌に物申す


 聴いたこともないのに好きになれない音楽、なんて理不尽な扱いの物件が私のうちにある。それはたとえば”ソウルフラワーユニオン”というバンドだったりする。念のためにもう一回言っておくが、私、このバンドの音は一度も聴いたことがない。でも、「嫌だな、聴きたくないな」という気持ちが歴然とあるのは事実だ。
 何でこんなことが起こるのかというと、このバンド、ミュージックマガジンとか、その場所で発言をしている人たちに受けがいい、というか支持を受けているところがあるでしょう?

 で、私がこれまで接して来た、そんな場所での彼らを賞賛する論調というのは、「ソウルフラワーは良いバンドだ。なぜなら彼らの音楽は、これこれこのような理由から、こんなに正しい。それゆえ彼らの音楽は素晴らしいのだ」なんてものばかりだった。というか、そんなものしか読んだ事がない、私は。
 世界の真実を正しくとらえ行動する、正義のために戦うバンド。なんて具合に光り輝く美辞麗句を集めているでしょう、彼ら。

 なんだかなあ・・・と、うんざり気分になってしまうのだ、そんな事を言われると。「音楽の良し悪しは、それが正しいか間違っているかなんてことで決まる筈がない」と考えている私は。音楽を正義のための下働きであるべきだと位置付けかねない論には、嫌悪を抱いてしまうのだ。
 「美しい音楽は、清く正しい心から産み出されねばならない」と思い込んでいた黒人兵の悲劇を描いた五木寛之の「海を見ていたジョニー」なんて小説でも思い出してみようか。

 私はむしろ、「演歌は未組織労働者のインターなのだ」と呟きつつ、自らの作った音楽を良識派の人々から下劣な音楽として葬り去られて行く、同じ五木寛之の小説、「演歌」の登場人物、”演歌の竜”に共感を持つ人間である。
 あるいは、「私の作った演歌という音楽は、日本人が不幸な生活を送っている証しであるのです。私の願いは、日本人が幸福になって、演歌などというものを忘れてしまうことなのです」と作曲家・古賀政男先生が語った事実を胸に刻んで忘れたくないと考えている者だ。

 私はソウルフラワーのメンバーが自分たちの音楽をどのように位置つけているのか、知りません。ただ、上に述べたような論者たちをひきつけるような音楽活動を行い、それら論を自分たちの周りから排除しようとはしていないようだ、と見えはする。言いがかりっスか、これ?

 いつのまに、音楽の良し悪しを「正義か否か」で決めるようになっちゃったんですかね?本来音楽ってただカッコいいから、聴いていて気持ちよいから素敵なんではないですか?
 たとえばあなた、ここに「正しい音楽」とだけ記されたディスクと「正しくない音楽」とだけ記されたディスクとがあったとして、どちらを聴いてみたいですか?私は断然、正しくない音楽を聴くなあ。面白そうだもの。なんか血が騒ぐもの。魂を自由にしてくれそうだもの。

 「いろいろ誤読してください」と言わんばかりの文章を書いてしまったな。まあ、いずれにせよ話はなかなか上手くは伝わりません、覚悟はしてますわ。



流れの中へ帰る時

2010-01-16 05:39:49 | アジア

 ”It's Possible'”by Metawat Sapsanyakorn

 タイのジャズマン、メータワット・サップセーンヤーコン。愛称がテーワン。ともかく進取の気性に富む人物で、これまでにも自身のサックスとタイの民俗楽器との饗宴による、ジャズとタイの民俗音楽との融合など演じて、我々スキモノを楽しませてくれた。
 静かな水面に揺れる蓮の葉みたいな瞑想の最中にある伝統音楽の香気の中を、テーワンの奏でるサックスのジャズィなフレーズが駆け抜けて行く様は、実に鮮烈なタイ音楽再興のイメージを描き出してくれたものである。

 そして今回は、意外にもバイオリンを手に、自国の伝統音楽との対戦、第3ラウンドに挑んで見せてくれた。ともかくも、こんなに達者なバイオリン奏者でもあったというのが、まず驚きなのであるが。
 演じられている音楽も、バイオリンという楽器の持っている特性なのか、テーワンが意識的にそうしているのか、かって自身がサックスを吹いて作り上げたタイ民俗ジャズとは相当に様子が違う。より形から自由になった音楽を演じており、サウンドとしてはむしろロック、いわゆるプログレッシヴ・ロックに近付いている。

 そしてジャズというこだわりから自由になったテーワンは、何だか童心に帰ったみたいな奔放さで、タイの古典大衆音楽と戯れている。遊んでいる、ただ無心に音楽と。
 そのような演奏が繰り返されるうちに、テーワンが巨大なタイ音楽の流れのうちに抱きとめられ、魂の故郷に回帰して行く姿が見えてくる。すべてのこだわりを捨てて、自由な光の中へ。こういうのを解脱と呼ぶのだろうか。何だか神聖な光かなんか差して来ちゃう感じなのである。




感動ゾンビの生け贄は

2010-01-15 04:27:01 | 時事
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 ●間寛平が前立腺がんを公表、「アースマラソン」は治療しながら継続。
 マラソンとヨットで世界一周する「アースマラソン」に挑戦中の間寛平が、前立腺がんを患っていることを公式サイトで発表した。現在、間寛平はトルコのイスタンブールに滞在しているが、治療をしながら「アースマラソン」は継続していくという。
 (ナリナリドットコム - 01月14日 01:14)

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 そんな状態で、走らないほうがいいに決まってる。
 テレビ局や相乗りしたスポンサーの都合があるから、病気が見つかっても走り続けなければならない。要するにカンペイは金のために走らされるのだ。

 その現実から目をそらし、テレビ局の垂れ流す感動話にやすやすと乗せられて「頑張れ」とかキレイ事を言ってる感動ゾンビのお前ら。「人は命を削ってでもやりたいことがあります」って・・・お前が決めるなよ、他人の人生観を。

 もしカンペイにこれから何かあったら、尻馬に乗って騒ぎ立て、カンペイが”降りる”道を閉ざしたお前らも共犯だぞ。人殺しだぞ、お前ら。

オデッサの夢の時間

2010-01-14 00:44:00 | ヨーロッパ
 ”Magic”by Fleur

 ロシアの南はウクライナの、黒海に面した古都オデッサより登場したスラブ風叙情バンド(?)の第2作目のアルバムだ。ジャケの優しく幻想的な水彩画、そのタッチがそのままバンドの個性を表している。ジャケの裏には「このウクライナからのポップアルバムのスラブ風メランコリーは、あなたを魅了するだろう」との文字がある。

 チェロやバイオリンまでも含む、9人編成の大所帯バンドだが、そのうちベース、ドラム、パーカッションの3人以外は名前を見る限りではすべて女性のようだ。そのうち、それぞれリード・ボーカルをとるピアノとギターの二人が、アルバム収録曲を6曲ずつ作っていて、バンドの中心人物かと思われる。
 交互にソロで、あるいはデュエットを聴かせる二人の歌声はどちらも、ドギマギしてしまうほどか細く、ナイーブなものだ。それが、物静かな憂いに満ちたメロディを囁くように歌って行く。

 メロディはどれも、子供部屋に置き忘れられた絵本のページから、ふと流れ出てきたような、懐かしさと幻想味と儚さに溢れている。これを”スラブ風メランコリー”と呼ぶのか適当かどうかは分らない。その旋律のうちに東欧らしいエキゾティックな魅惑は確かに感知は出来るのだが。

 バンドのサウンドも同じように繊細極まるもので、終止表に出て来てサウンドの雰囲気をリードするフルートを始め、夏の終わりを告げる秋風の最初のひと吹きみたいな淡い感傷だけで出来上がっているかのように感じられる。
 聞き終える頃には、よく出来た影絵芝居の一幕を見たような気分にさせてくれる、切なくも心安らぐ一枚だ。




ラトビアの冬の夜

2010-01-12 03:06:53 | ヨーロッパ

 ”Biruta Ozolina &Patina”

 北欧のいわゆる”バルト三国”の一つ、ラトビアのフォーク歌手である、Biruta Ozolina が現地のジャズ・ミュージシャンとの共演で作り出した、不思議な手触りの一枚。
 ラトビアの古い民謡をジャズのサウンドに乗せて蘇らせようという試みのようだが、これが独特の効果を生み出しているのだ。ちなみにジャケに書かれたこのアルバムの音楽ジャンル分けは”エスノジャズ”である。

 Biruta の歌う、どこか日本の子供の遊び唄なども連想させる素朴で懐かしい旋律をもとに、バックにひかえるジャズマンたちは想像力を全開にして、今日のラトビアの当たり前の日常と、そこにふと忍び込む古代の幻想を描いている。
 ピアノがジャズィな和音をまき散らし、雪降り積む北国の都市の灯りを表現してみせると、ベースが、その街を行く人々の抱えた孤独を低く呟く。そして聴こえてくる、素朴極まりない歌唱による忘れ去られていた民謡の調べ。

 遥か昔のラトビアからやって来た古い古い言い伝えが、街の辻々に響き渡る。もう失われてしまった古語による物語と警句が、粉雪舞う街を行く人々の心に静かに染み渡って行く。
 シャープなシンセのソロが表通りを走り去る車のライトの輝きを奏で、サックスの歌うレイジーなフレーズが街の暮らしの倦怠を滲ませる。
 暮れ行く北の街の夕刻のある瞬間、古代都市の幻想が街を覆い、そして消え去って行った事を人々は知らずに終わるが、その日から街の人々を訪れる夜毎の夢は、これまでとは違った色合いを見せるようになる・・・




ライドオン、ウズベク・ガール!

2010-01-11 02:26:28 | アジア

 ”ALVIDO”by DINEYRA

 昨今、何かと気になる中央アジアはウズベキスタンのポップス。
 もっとも現地ではもはや普通にオーディオCDで音楽を聴く、なんてシステムは終わってしまっているようで、MP-3などでしか入手不可能な音源なども多いようで、当方のような昔気質の「ともかく”オーディオ盤”が欲しい」派は苦戦を免れないのかもしれません。
 まあそれだってかの地のソフトが手に入るルートを見つけられたら、の話であるのは毎度、ワールドミュージック・ファンの悩みの種でありますな。まあ、そんな事をこぼしていたって仕方がないんですが。

 で、このディネィラ嬢、韓国のアイドルグループ、”少女時代”との間の「どっちが曲をパクッた?疑惑事件」とか、そんな揉め事で知られる事となってしまったみたいですが、その辺の話題はあんまり興味ないんでスルーしておきます。
 いや、そんな話題は忘れて聴いてみると、なかなか良いんですよ。これまで聴いたウズベク・ポップスの中ではもっとも西欧流のポップスに近い出来上がりのように思われます。クールでお洒落な都会派ポップスと言ってしまっていいでしょう。なんといっても聴き進むうちに何曲か英語の歌詞のものが出てきたのには驚いた。「世界に雄飛するウズベク・ポップス」って構想でもあるんでしょうか。

 全体のサウンド構造は、やはり元ソビエト連邦構成国ということなんでしょうかね、モノクロっぽい空間に打ち込みのリズムと冷たいシンセの鳴り渡る、ロシアのポップスによくあるような研ぎ澄まされたエレクトリック・ポップスが基調となっている。
 けど彼女の歌う曲調は明らかに中央アジアらしい哀感を漂わせたもので、時にシンセの音の間を縫ってウズベクの民俗楽器がかき鳴らされたりします。
 この辺の、「やや古いタイプの近未来イメージと中央アジアの民俗調」の入り乱れるさまが、なかなかスキモノの血を騒がせる妖しさを持っています。加えて、なかなかの美人であるディネィラ嬢の愛らしい歌唱が、ますます聴く者の血を騒がせることとなる。

 いやあ、この人ももっと聞いてみたいものですなあ。というか、考えて見ればウズベクのポップスってかなりの命中率でこちらの琴線に触れて来ています。適度に哀感、適度にエキゾティック。本格的にかの地のポップスが紹介されるようになれば、結構ファンは付くんではあるまいか?
 それにしても、どこへ行けばウズベク盤なんて売ってるんだろうなあ。

 などと。古い歴史を秘めた古道に背に荷を負った駱駝が行き交い、砂漠の砂嵐吹き抜ける、そんな世界に流れるディネィラ嬢の最新ヒット曲など夢想してみるのでした。



こりん星の面影を台湾に探る

2010-01-09 03:40:03 | アジア

 ”MY CHINESE LOVER”by 左安々

 台湾のポップスについて調べていたら、左安々なんて懐かしい名前に出会い、おおおお、元気でやっていたのかあ、などと同窓会気分になってしまったのだった。
 左安々といえば、私がアジアのポップスを聴き始めた頃に台湾でアイドル歌手としてデビューした、確かシンガポールの華人社会出身の少女だった。当時、私は彼女のデビュー曲、”MY CHINESE LOVER”のビデオ・クリップを見て、一発で彼女のファンになってしまったのだった。

 その、擬古調中国歌謡とでもいうのか、わざと古めかしく作られたメロディがいかにも似合いのなんともうららかな歌声がなごめたし、そのルックスも、どこかポヤンと回転数の遅れる感じがのどかでよろしかった。
 つまり彼女、今にして思えば台湾版の小倉優子とでも言いたくなるような個性だったのだが、この話は10数年前に遡るのであって、左安々のほうがゆうこりんより先輩なのである。
 当時、さっそく左安々のアルバムなど集めてみたものだ。声が半分、ただの息となって漏れ出てしまうような発声法(意味が分るだろうか?)も、いかにも正統派アイドルらしい頼りなさで、ジャケ写真で野原の雑草の下でカエルと並んで雨宿り、なんてこりん星的メルヘン意匠も楽しめた。

 が、そのうちこちらの感性がもう少しディープな民俗派ポップスを欲するようになって来た。左安々への興味はひとまずこっちへ置いといて台湾演歌でも聴こうか、などとしているうちに彼女のことはすっかり忘れてしまい、気が付けば彼女の噂もさっぱり聞かなくなっていたのだった。
 アルバムのリリースもなくなっていたし、現地生活の長い音楽リサーチャー氏に尋ねてみても、「左安々?どうしてるんでしょうね?」という始末。まあ、彼女のことは忘れてしまうしかなかったのである。

 で、10数年の歳月を挟んで見つけた左安々の消息を、中国語の記事から読める漢字を拾いつつ解読してみると、どうやら彼女はアイドル歌手としてはさほどのものでもないキャリアを経て裏方の仕事と言うか、アイドルの歌う曲を作曲する側に廻っていたようだ。有名どころでは台湾のアイドルグループである S.H.E の楽曲のいくつかは左安々の仕事であったようだ。
 いろいろ検索してみると、すっかり貫禄を増した左安々が”作曲家の先生”然としてゲストで登場して来るテレビ番組の映像などあり、そうそうそうなんだよ、この女とは昔、いろいろあってね、うん、元気そうだ。幸せでいてくれたらいいんだけどねえ、などと知った風な事を言って感慨にふけってみたりするのであった。くだらねーなー。

 うん、まあそれだけの話なんだけどね、それにしてもいい曲だった、いいビデオ・クリップだったねえ、”MY CHINESE LOVER”は。

 ”MY CHINESE LOVER”の試聴はYou-tubeにはなく、またやっと見つけたこれも音楽だけで映像は失われており、関係ないアニメなど付けられている。映像を使えない事情でもあるのか、残念なことである。
 ↓
 ●試聴・”MY CHINESE LOVER”

隠された欺瞞の記録

2010-01-08 05:04:49 | 書評、映画等の批評
●あの時、バスは止まっていた・高知「白バイ衝突死」の闇
 (山下 洋平著 ソフトバンククリエイティブ)

 冤罪の記録である、と言ってしまっていいだろう。それも現在進行形の。なにしろ罪を着せられたバスの運転手はこの文章を書いている時点で、まさにその冤罪により有罪の判決を受け”服役”中なのである。
 すべての科学調査や目撃者の証言は、”スピードを出し過ぎてコントロールを失った白バイが停車中のスクールバスに激突し、運転者の警官が死亡した”というのが事故の顛末であろう事を示しいる。
 が、警察は続々と捏造としか言いようのない穴だらけの”証拠”を提出して白バイ側の運行の正当性を主張し、裁判官もまたバス運転手側の主張をいっさい破棄、警察側の主張をそのまま受け入れ、”スクールバスが不注意から白バイを跳ね飛ばした”という方向の判決をくだす。まさに真昼の暗黒。
 裁判官の、「第三者の目撃証言だからといって正しいとは限らない」なる文言には唖然とするしかない。それならいったい、どんな証拠なら採用するというのだ。
 警察側は、裁判所は、そしてバス運転手を無実の罪に陥れて殉職者年金を受けているのであろう白バイ警官の家族は、この欺瞞が永遠に保持されると信じているのだろうか。いつか真実が白日の下に明かされた時、歴史はあなた方をなんと呼ぶのだろうか。それを考えた事があるのか。
 
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<春野の交通死亡事故:控訴審、即日結審--高裁で初公判 /毎日新聞>

 平成18年3月、高知県吾川郡春野町の国道で県警の白バイと生徒22人を乗せたスクールバスが衝突し、白バイ隊員=当時(26)=が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われている同郡内の元バス運転手の男性(53)の控訴審初公判が10月4日、高松高裁で行われ、男性はあらためて無罪主張し結審した。
しかし10月30日の高松高裁の判決で柴田秀樹裁判長は、証拠を捏造した疑いは全く無いとし、控訴を棄却した。
 バスの運転手と乗っていた生徒らの証言では、バスはゆっくりと停車し、反対車線の車の流れの切れ間を待っていたところに猛スピードの白バイが衝突したとあるが検察側はバスが右方向を十分に注意せずに横断、そこへ安全速度で走ってきた白バイが衝突し、その後3m引きずり急ブレーキで停止したと主張した。
 しかし検察の挙げた証拠には、バスのタイヤ痕と見られる証拠写真がきわめて不自然であり、また事故直後の写真のバイクの破片の位置が衝突地点に無いなど、不審な点が多く、証拠は警察により捏造されたのではと問題となっている。

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ロック最後の50枚

2010-01-06 03:23:45 | 60~70年代音楽

 ”愛と勇気のロック50 ベテラン・ロッカーの「新作」名盤を聴け! ”
 (中山康樹 著 小学館文庫)

 それにしても、どういうセンスのタイトルだ。もの凄く恥ずかしかったぞ、買うのが。かって”ジャズ名盤を聴け”なる書で、書店店頭で立ち読み中の私を発作的哄笑に叩き込んだ実績のある中山康樹の著書でなかったら当方、手に取る事もなかったろう。
 本書は、1950年代、60年代、70年代と言う、”ロックの黄金時代”に活躍したミュージシャンたちが世に出した”最近の新譜”ばかりが取り上げられている。奴等は”晩年”をどう生きているか?

 私のように”あの時代のロック”をリアルタイムで体験しながらもロックへの支持を途中でやめてしまった者にはこの本、興味深くもなかなかむず痒い気分のものである。
 本業がジャズ評論家である著者は、ジャズのファンが気に入ったミュージシャンをその生涯にわたって追い続けるのに対し、ロック・ファンはそうしないのをもったいないと感じてこのような本を書くことになったようだが。

 聴く事をやめてしまったものとして言わせてもらえばロックが”終わった”から聴くのをやめたのであって、もったいないといわれても困る。火の落ちた風呂桶に入り続けても、寒くなって風邪でもひくのがオチではないか。
 と、著者と読み手であるこちらの意識も微妙に食い違いつつ、それでもかって青春の血を滾らせて追いかけていたミュージシャンたちが今日、発表したアルバムへのきちんとした評をまとめて読めるのは興味深い。楽しんで読んだ、と言っていいだろう。それらアルバムを実際に聴く日はおそらく、来ないのだろうが。

 読んで行って感じたのは、彼らの人生は普通に続いている、ということだ。祭りの季節は終わっても、彼らはまたギターに弦を張り、スタジオに明かりをともす。それがつまり、ミュージシャンというものだから。ジャニスやジミのように都合よく夭折し得た者は少数派なのだ、言うまでもなく。
 そして私は、出る気持ちもない同窓会の案内状に目を通すような気分でこの書を読み終える。著者と評論家の坪内祐三の巻末対談には「ロックの最後を見届ける50枚」とのタイトルが付されてあった。