ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

奄美新民謡名曲集・序説

2008-03-04 04:24:22 | 奄美の音楽


 と言うわけで。相変らずの抜けない風邪から来る鼻水ジュルジュル状態で「南の島はえ~の~。明るい日差しの下で暮らしたいよな~」などとウワゴトを呟きつつ、”奄美新民謡名曲集”なるCDを聞いておる次第です。”唄の郷土史”と副題が打たれております。

 この”新民謡”なるもの、民謡と名乗る割には奄美の民謡、島唄とは関係のない音楽でありまして、大正末期から昭和初期にかけて全日本的規模で詩人や作曲家たちによって起こされた文化運動である”新民謡運動”の産物という次第で。
 新民謡運動とは、各地のローカル文化を生かした新しい日本の郷土歌を作ろう、なんて運動だったようです。そこから生まれた作品の一つが大正10年の作品、”船頭小唄”だった。この辺から中山晋平・野口雨情の作詞作曲コンビが生まれ、数々のヒット曲を世に送る事となるわけですが。

 この運動、”本土”たる日本の全国的ブームが去った後も、奄美では独自の形で続いていたようです。そうなった理由の本当のところやら、続いたというがその規模は?なんてあたりに興味は尽きませんが。
 例えば太平洋戦争後の一時期、奄美諸島がアメリカ軍政府の支配下に入り、日本から隔絶された奄美の人々が、その想いの行き所を新民謡の創作に求めた、なんて解説にも出会っております。さらにその後、昭和37年にご存知バタやんの「島育ち」のヒットによる島唄ブーム(?)に刺激され、またまた奄美の新民謡が活性化した、など。
 そのあたりの歴史がこのCDには製作年代順に収められているというわけで。

 しょっぱなに収められている”永良部百合の花”が昭和6年作で最も古い作品。これは私も子供の頃に聴いた記憶がある歌で、当時、バタやんの喚起した島唄ブームにのって掘り起こされ、”内地”の歌手によって歌われていたのだろう。
 例の沖縄音階が使われているので沖縄の民謡かと思っていたのだが、元は奄美諸島の徳之島の俗謡との事。なるほど、沖縄音階は徳之島を北限とする、なんて説を思い出させます。

 以下、昭和初期の頃の奄美の生活のありよう。当時の政策による徳之島の繁栄。戦後の、本土から切り離された生活の厳しさや故国への望郷の思い、その後やって来た復興の活気などなどが、独特の味わいを持つ”奄美ローカルの歌謡曲”としての”新民謡”によって歌いつずられて行く。

 ざっと聴いてみると、戦前の録音は古めかしいのは当然と言うか仕方がないとして、今でも”有効”な唄もあれば、思い出の中に眠らせておくしかない唄もある。その辺はちょっと考えてみたくなりますな。
 大体、”奄美の今をこの唄に込めて”みたいな高い理想を仮託されて作り上げられた、リアルタイムでは”立派な歌”だったのだろう歌の多くは、古びてしまっているといって良いんではないでしょうか。

 逆に、たわいない、と言うと語弊があるかもしれないが、しがない歌謡曲、というともっと語弊があるか、いや要するに”単なる唄”(だから・・・良い意味でね)ほど、今日でも通用するような魅力を秘めていたりする。このあたりに秘められた”大衆音楽の真実”って奴を思うと、なかなかに血が騒ぐ想いがいたします。
 田端義夫の取り上げた「島育ち」なんて唄も、そんな”なんでもないがゆえに素敵な唄”なんだけど、これ、昭和14年の作品なんだな。バタやんに取り上げられて全国的なヒット曲になるまで、23年の歳月が過ぎていた、というのも味わい深いエピソードと思います。

 なんてダラダラ書いていてもまとまらないしきりがないな。まあ今回は新民謡の歴史をまとめたアルバムをざっと見渡して、ほんのイントロ代わりと言うことで。またいずれ、突っ込んだ話は。
 しかし、太平洋戦争と米軍による占領期を挟んで奄美の人々が生きて来た生々しい現代史を聴き下る(変な表現だが)のは、やはり万感の思いがあります。いや、そのような感想を洩らす予定ではなかったのだけれど。


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