ラテン音楽誌の”ラティーナ”に「インシャラー」という曲に関して、それを創唱したシャンソン歌手、アダモのインタビュー記事が載っていたのだった。
なにしろ”サントワ・マミー”とか作った人ですからねえ、あっそう、そういう人もいましたねでスルーしたいところだが、このインシャラーという曲は、結構気になる曲だった。というか1966年、リアルタイムで普通にヒット曲として好きな歌でもあったのだった。
そうだそうだ、まだ、”洋楽のポップス”がそのままワールドミュージックだった頃、私はストーンズの最新ヒットシングルとともにシャンソン歌手たるアダモの新譜も、ごく当たり前のこととして購入していたのだった。
今、アダモのアルバムを検索かけてみると、まあ、特に興味をそそられる曲もなく、この”インシャラー”だけが特別の歌だったと再確認できる。
今、音盤が手元にないので記憶を辿って書くしかないのだが、イスラミックなイントロには12弦ギターが印象的な使われ方をしていて、あれは今思えばアラブの民族楽器、ウードのイメージで使われていたようだ。そして、上記”ラティーナ”の記事より、その歌詞日本語訳を流用すれば。
”エルサレムで ひなげしの花が咲く岩に 耳を傾けたら
レクイエムが聞こえてきた”
とある。1966年にイスラエルを訪れたアダモが、そこで目撃したことを歌にした、それが”インシャラー”である。周囲のアラブ諸国から集中砲火を浴びていた、建国間もないイスラエルへの賛歌だった。
アダモは今、述懐する、「そのとき僕はパレスチナの人々の苦悩を書き忘れました」と。より正確に言えばそれを知らなかった、目に入らなかった、となるのではあるまいか。この歌を初めて聴いた子供の頃の私が、「あのアウシュビッツで集団殺戮に遭ったユダヤの人々が作った国」などと素朴なセンチメンタリズムの内にあって、それ以外の部分を見損ねていたように。
やがて、67年にイスラエルとアラブ諸国の間に”6日間戦争”が起こった際、”インシャラー”はイスラエル軍兵士の戦闘歌となってしまい、そのあたりでアダモも、自分が軽率な振る舞いをしてしまったことに気付く。彼は”イスラエル寄りの歌い手”としてアラブ諸国のブラックリストに載ることになるのだ。それはそうだろうなあ。私もその辺がその後、どうなったのか、気にはなっていたのだ。国際情勢の本当の様相を知れば知るほど、あの歌は”ヤバイ歌”であると思われてくる。
ラティーナ誌に掲載されたインタビューによればアダモはその後、中東情勢の変化に応じて、彼の良心が命ずるままに、あるいは失点の回復のために、さまざまに”インシャラー”の歌詞を書き換えてきたようだ。”ほら、憎しみのあと、イスマエルの息子とイスラエルの息子が握手した、空には鳩が”などと。
彼がアラブ圏の国で初めておおやけに歌を歌うことが出来たのは、ほんの2年前である。チュニジアにおけるコンサートにおいて。問題の”インシャラー”も、チュニジアの文化大臣の特別の許可の下に歌い得た。
その後、アダモとアラブ諸国との間に起こった”関係改善”の有様がインタビューでは語られて行くが、この辺で事情はまた、見えなくなってしまう。
話は「頭の固い政府が”インシャラー”を禁止するものの、アラブ圏の民衆はもっと柔軟で、アダモがその歌を歌うことを、むしろ歓迎したのである」といった方向に進んで行く。
アラブの民衆は、かの歌を作った当時のアダモの素朴なヒューマニズムに共鳴して”インシャラー”を許容したかのように語られているのだが、それは少し話がうますぎはしないか。
むしろ、歌詞の意味など飛び越えて、単に国際的大歌手の大ヒット曲だから物見高い庶民は、それを聴くことを好んだのである、とするほうが納得しやすいのであるが。というのも私の勝手な解釈であるが。
そんな具合に、40年経っても私は、かの歌を取り巻く真相を分からずにいるのだった。それにしても勝手にラブソング仕立てにして歌ってしまっているという加藤登紀子の姿勢もいかがなものか。
勝手にラブソングは、私はいいと思います。
遠い国の歌で社会問題を考えるってのも、座り心地わるいし。
でも「知床旅情」は森繁久彌が歌う方が好きです。
♪一人で寝ると~きはよ~おおお~お~
はよく聴きましたけどね。