ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

岸井明色の月の下で

2012-01-23 21:47:42 | ジャズ喫茶マリーナ

 ”歌の世の中~岸井明ジャズソングス”

 岸井明の名前は私の場合、片腕欠次郎さん(仮名)の思い出とワンセットとなって意識に登ってくるのだった。
 欠次郎さんは60年年代末、我が街に突然、非常にえぐい形でゲテモノラーメン店を出店し、永遠の午睡の夢にまどろんでいた田舎の温泉街にちょっとしたショックをもたらした。
 そのエグい手描きの煽り文句が貼り出された屋台を、街の大人たちは通りすがりにこわごわ覗き込み、私も、「あんな気持ち悪い店を営業している人物とは、まさに人外境からやって来た魔人のごときもの、おそらくその目で地獄を見たこともある人物に違いない」などと悪夢を育んだものだ。

 月日は流れ。その店はやがて、屋台から近くのビルのテナントに入り、より常識的な姿で新装開店という方向で街の風景に溶け込み、そして店を息子に譲り、隠居生活に入った店の創業者である欠次郎さんと私は、ひょんなことから飲み友達となっていたのだった。

 若き日は浅草でモダンボーイとして鳴らしたという欠次郎さんは酔っ払うと、昔、山下敬二郎のバックバンドにいたという、近所の飲み屋のマスターのギター伴奏で、”あきれたぼういず”のネタを延々と再現してみせるのが常だった。
 誰にも理解されることなくそんな自己完結芸に毎夜興じていた欠次郎さんに、ある夜、エノケンのモノマネで応じてくる者が現れた。そいつがつまり私だったという次第で。その夜以来私は、父親よりも年上の欠次郎さんの虚構の同級生として、見てもいない戦前の日本の芸人たちの思い出話に興じてみせる日々を送る事となったのだった。

 深夜、飲み疲れて家に帰る欠次郎さんの姿を見かけたことがある。もともと、体に非常に目立つ欠損がある欠次郎さんだったが、それ以外にもしばらく前に患った脳卒中の後遺症で半身の不自由な欠次郎さんはなんと、地面を這いながら夜の飲み屋街を移動していたのだった。それまで、飲み屋の席に座っている彼の姿しか、知らなかった私だった。月の光に照らされてその姿は、まるで江戸川乱歩の小説の一場面かと思えた。
 一緒にいた友人は息を呑み、「凄げえや。酒飲みのカガミだな」と呟き、私もとりあえず頷くことしか出来なかった。
 今思えば、その体の欠損の生じた理由、などというものはともかく、彼が青春を燃やした戦前の浅草のありようなど、訊いておくべきものはいくらでもあった。が、欠次郎さんと私は、顔を合わせるともう何度も繰り返している懐メロ芸の応報に終始し、ただ際限もなく酒の海に溺れてしまうのだった。

 そんなある日。欠次郎さんから私は一本のカセットテープを手渡された。家に帰って聞いてみるとそれは、欠次郎さんが秘蔵のSP盤からダビングしてくれた彼の特選ジャズソング集だった。片面に二村定一、片面に岸井明のナンバーが収められていた。
 二村定一は既におなじみだったが、岸井明に関してはそれが初対面だったはずだ。 一聴、完全に魅了された。戦前の日本にこんな洒落たジャズが、と舌を巻くしかない伴奏に乗って、飄々と、まさに”軽妙洒脱”と言う言葉そのものみたいに岸井は歌っていた、”ダイナ”を、”月光価千金”を。まいった。こんな”ジャズ”歌手が戦前の日本にいたのかよ。

 余談が長過ぎた。出たばかりの岸井明の2枚組CDの話をしよう。改めて聴いてみると、やはり素晴らしいジャズ歌手だと思うし、欠次郎さんのセレクトも的を射ていたとも思う。岸井明の残したほぼすべての作品群をこうして聴いてみると、歌唱、バックのサウンド共に、あのテープに入っていたものがやはり、岸井のベスト作品と再確認出来たからだ。CDの解説を読むと、それらの曲は当時映画音楽で売ったPCL所属のジャズバンドのコンサートマスター、谷口又士のアレンジになる5曲が特に卓越とあり、やはりそのあたりが最も岸井がジャズ歌手として高揚していた瞬間と言えるのだろう。
 それ以外のレコーディングももちろん楽しいものなのだが、”その5曲”が素晴らしすぎる、という話だ。ジャズとして天上の調べを奏でている。

 ”舶来ヒットソング”の楽しさに比べ、CDの2枚目に収められている和製ジャズソングは、私にはややきびしかった。というか、そもそも岸井はこのような”コミックソング”で良さを発揮する歌い手ではないのでは、という気がする。基本、彼はコメディアンだったのだから、お笑いソングを歌うのは当たり前の営業だったのだろうが。
 歌手・岸井明の本領は美しいメロディの切ないジャズ小唄を軽く歌い流す、という辺りにあると確信する。
 懸命におどけてみせるのは、歌手としての彼の個性に合っているようで、実は違うのではないか。などと言ってみても今更どうなることでもないが。
 そんな次第で、やはり一枚目の舶来ヒット集を何度も聴いてしまうのだ。それにしても、”ホノルル・ムーン”なんて歌ってくれていたとはなあ。この曲、大好きなんだよ。などと言いつつ。

 欠次郎さんが亡くなって、もう何年になるだろう。彼とアルコールの海の中でジャズソングを歌い交わしていたのは、考えてみればもう20年以上前の話である。今、彼のラーメン店はビルのテナントから姿を消し、それがあった場所には若者向けの居酒屋が店開きしている。
 当時の飲み仲間も四散し、あの頃の思い出は幻か何かとしか思えなくなっている。この場末の観光地を照らす月の光は、今でも変わらねど。





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