”Doagh”by Maria McCool
3日は、異常に気温の下がった日でした。あちこちで早過ぎる初雪の知らせが届いていたようだし、私も朝、いつもの調子でバイクに乗って集金に出かけ、何メートルも走らないうちにあまりの寒さに家に取って返して羽織る上着を探す、なんてドタバタを演じました。
というか、今は3日の深夜、暦の上では4日になったばかり、なんて時間にこれを書いてるんですが、なんかしんしんと冷え込んできてます。天気予報じゃ明けて明日には元の暖かい日が戻るとか言ってましたが、どうなることか。
ここに取り出しましたるCD。歌い手の Maria McCool はアイルランドの新人トラッド歌手。これが2枚目のアルバムだそうです。タイトルになっているのはアイルランドも北の外れ、ドニゴール地方にある半島の名だそうですんで、まあ、いかにも寒そうで、今の気分にぴったりかな、と。
アイルランドのトラッド、なんていうと、ややこしい話が始まるかと思われるかも知れませんが、私はする気がありませんのでご安心を。あるいは、期待しないでください。
ま、そんな話は知識がないからしようと思ってもできないんだけど、あってもする気はありません。知識のひけらかし合戦とかうっとうしいじゃありませんか。とか言うと、この時点でもう叱られるか。
でもありますよね、「俺はこの音楽に詳しいんだぞ、凄いだろ」なんてファンがウンチク語りたがる音楽って。まず昔からその傾向があるのがクラシックとジャズですな。ロックだったらプログレ。フォーク系だったらトラッドと相場が決まっています。
その人たちの論の進み方は、”この音楽は凄い→凄い音楽を凄く詳しく知っている俺はすっげー凄い”ですね。私はもう、そんなゲームにつき合わされるのはうんざりなんで、アホの看板を掲げておきます、というお話であります。いや、学者先生はそんな話をされるのが仕事ですから文句を言う筋合いではないですが、私はとりあえず関係ない、ということで。
さてこのアルバム、シンセによるストリングスや多重録音による一人二重唱がときおり差し挟まれる以外はピアノの伴奏のみの静的空間に Maria McCool の、静かな、そして豊かな歌声が響きます。
彼女の歌声に私は、トラッドより出でてよりナチュラルな、ごく当たり前の”歌”であろうとしている、みたいな響きを感じます。ただ大きく息を吸って、一人の人間としての矜持と節度を持って歌に対峙する、それだけを心に。
収められているのは、多くはゲール語の歌詞を持つ伝承歌が中心の選曲。どちらかといえば内省的なゆったりとした、美しいメロディの曲ばかりです。その狭間に、”ダニーボーイ”なんて、ある意味、手垢の付いた通俗民謡や、ジョン・デンバーの”緑の風のアニー”なんてポップス曲が差し挟まれ、しかもそれが何の違和感もなく収まっているのが、この Maria McCool という歌手の懐の深さと思います。
何の違和感もなく?いやむしろ、それらの歌はこの民謡中心のアルバムの世界を広げ、今日の息吹を吹き込むのに大いに貢献していると言えましょう。そうそう、最終曲はドヴォルザークのあの曲です。
内ジャケに、タイトルの半島の海岸であろう風景写真があります。打ち寄せる最果ての荒海に洗われ、吹き寄せる北風に晒されて白く乾き切った海辺の風景の中に、朽ち果てそうに立っている石作りの上代の建築物があります。
すべての歌は、音楽は、いつかはその物寂しい海岸に吹き寄せる風の音に紛れて消えていってしまうかに見える。だがそれは実は、ずっと昔にその場所に足跡を示した人々の命の流れに迎えられて行くことなのだ、なんて呼びかけが聴こえるようであります。
このアルバムの所収曲はYou-tubeには無いみたいで残念なんですが、Maria McCoolのその他の歌が見つかったので貼っておきます。彼女の歌はどれも良いもんね。
3日は、異常に気温の下がった日でした。あちこちで早過ぎる初雪の知らせが届いていたようだし、私も朝、いつもの調子でバイクに乗って集金に出かけ、何メートルも走らないうちにあまりの寒さに家に取って返して羽織る上着を探す、なんてドタバタを演じました。
というか、今は3日の深夜、暦の上では4日になったばかり、なんて時間にこれを書いてるんですが、なんかしんしんと冷え込んできてます。天気予報じゃ明けて明日には元の暖かい日が戻るとか言ってましたが、どうなることか。
ここに取り出しましたるCD。歌い手の Maria McCool はアイルランドの新人トラッド歌手。これが2枚目のアルバムだそうです。タイトルになっているのはアイルランドも北の外れ、ドニゴール地方にある半島の名だそうですんで、まあ、いかにも寒そうで、今の気分にぴったりかな、と。
アイルランドのトラッド、なんていうと、ややこしい話が始まるかと思われるかも知れませんが、私はする気がありませんのでご安心を。あるいは、期待しないでください。
ま、そんな話は知識がないからしようと思ってもできないんだけど、あってもする気はありません。知識のひけらかし合戦とかうっとうしいじゃありませんか。とか言うと、この時点でもう叱られるか。
でもありますよね、「俺はこの音楽に詳しいんだぞ、凄いだろ」なんてファンがウンチク語りたがる音楽って。まず昔からその傾向があるのがクラシックとジャズですな。ロックだったらプログレ。フォーク系だったらトラッドと相場が決まっています。
その人たちの論の進み方は、”この音楽は凄い→凄い音楽を凄く詳しく知っている俺はすっげー凄い”ですね。私はもう、そんなゲームにつき合わされるのはうんざりなんで、アホの看板を掲げておきます、というお話であります。いや、学者先生はそんな話をされるのが仕事ですから文句を言う筋合いではないですが、私はとりあえず関係ない、ということで。
さてこのアルバム、シンセによるストリングスや多重録音による一人二重唱がときおり差し挟まれる以外はピアノの伴奏のみの静的空間に Maria McCool の、静かな、そして豊かな歌声が響きます。
彼女の歌声に私は、トラッドより出でてよりナチュラルな、ごく当たり前の”歌”であろうとしている、みたいな響きを感じます。ただ大きく息を吸って、一人の人間としての矜持と節度を持って歌に対峙する、それだけを心に。
収められているのは、多くはゲール語の歌詞を持つ伝承歌が中心の選曲。どちらかといえば内省的なゆったりとした、美しいメロディの曲ばかりです。その狭間に、”ダニーボーイ”なんて、ある意味、手垢の付いた通俗民謡や、ジョン・デンバーの”緑の風のアニー”なんてポップス曲が差し挟まれ、しかもそれが何の違和感もなく収まっているのが、この Maria McCool という歌手の懐の深さと思います。
何の違和感もなく?いやむしろ、それらの歌はこの民謡中心のアルバムの世界を広げ、今日の息吹を吹き込むのに大いに貢献していると言えましょう。そうそう、最終曲はドヴォルザークのあの曲です。
内ジャケに、タイトルの半島の海岸であろう風景写真があります。打ち寄せる最果ての荒海に洗われ、吹き寄せる北風に晒されて白く乾き切った海辺の風景の中に、朽ち果てそうに立っている石作りの上代の建築物があります。
すべての歌は、音楽は、いつかはその物寂しい海岸に吹き寄せる風の音に紛れて消えていってしまうかに見える。だがそれは実は、ずっと昔にその場所に足跡を示した人々の命の流れに迎えられて行くことなのだ、なんて呼びかけが聴こえるようであります。
このアルバムの所収曲はYou-tubeには無いみたいで残念なんですが、Maria McCoolのその他の歌が見つかったので貼っておきます。彼女の歌はどれも良いもんね。
「ミュージック・マガジン」の読者投稿コーナーはその典型ですよね。
わたしには何の話だかさっぱりわからなかったんですが、素人なのに評論家気取りな投稿もありましたよ。
>ファンがウンチク語りたがる音楽
わたしの知る限りでは、アジアポップスなら香港・台湾、ワールドミュージックは年代物が相場だと思います。
そんな論文の引き写しなんかより、あなたが音楽から何を感じたか、まずそれを聞かせてみるよと言いたいですね。