レコードコレクターズ誌の8月号の特集が”ローリング・ストーンズ ベストソングス100”というもので、「フン、こんなもの、俺に言わせりゃよう」などといろいろ文句をつけたいところなのだ。
が、なにしろこちとら、ともかくブライアン・ジョーンズのファンであり、「ブライアン脱退後のストーンズにはなんの興味もない、その後のストーンズはストーンズであってストーンズではない」という特化した評価しか持っていないので話の噛み合いようがない。
まあ。それは仕方がないにしても、かってリアルタイムで「ロンドンの不良のバンド」としての彼らを愛していた人々は、その後の大産業ロックと化した彼らをも同じように愛せるものなんだろうか?「あのストーンズ」と、現在ストーンズなる名を冠して存在しているバンドとは全く違うものと私には思えるのだが。両者ひっくるめて”ベスト100”とか評価してしまえるものなのだろうか。不思議だぞ、ご同輩。
しかしブライアンのファンである、というのもなかなか苦しい立場(?)なのであって。ストーンズの持ち歌の中にブライアン作の傑作曲があるという訳でもなし、ストーンズの楽曲の中からブライアンの演奏と判断されたギターやハーモニカやらの演奏をピップアップして、あれこれ言ってみても、それは顕微鏡下の細胞標本から野生動物の生体を想定するみたいなじれったさがある。
どちらかといえば、そんなまっとうな評価を試みるより、彼のファッションや、あるいは目の下のいかにも不健康なクマやたるみへの偏愛を語ったりするほうがブライアン的世界へ近付けるような気がする。
彼でもなければ取り上げることもなかったろう奇妙な外見のボックス社製ビワ形ギターやら、わざわざ左利き用のネックを取り付けたギブソン・ファイヤーバードに憧れてみる。ついでに、GS時代から鋭くブライアンに反応して同じビワ型ギターを愛用していたかまやつひろしまで贔屓してみようか。
その、シタールやマリンバの演奏やら、彼の死後発表されたモロッコ音楽紹介のアルバムを拾い上げてワールドミュージック的評価を加えてみよう、などというのは、こいつも無理やり過ぎる。奴にそんな学究的意図があったとも思えず。それらの行為に関しては、「こいつ、何をやりたかったのか、さっぱりわからん」と、ただ首をかしげてみせるのがブライアンの遺志にもかなうような気がしてならない。
本来はストーンズの創始者でリーダーであるはずが、バンドの本流から外れ放り出され、時代に気配のようなものを残しただけである日ふと自宅のプールに浮かぶ、という奇妙な、だが妙にお似合いでもあるこの世とのオサラバの仕方をした彼の残していったクエスチョン・マークの数々をそのまま受け止め、何やら割り切れない不安を心の底に残したまま残りの人生を中途半端に生きる、これがブライアンの正しいファンのするべきことだろう。というか、我々は他に何をどうする訳にも行かないのである。