”手只”by 黄千芸
台湾の演歌歌手、黄千芸の2010年度作品。とはいえ、10年前に作られていたとしても、10年後に作られるとしても、同じような作りになっていたろう、なんて気がする。彼女の歌声は、そんな、ジットリと民衆の心に染み付いて取れないままの年季を経たシミみたいな音楽だ。
黄千芸女史は落ち着いた歌声の、決して派手なキャラクターではないのだが、なにやら濡れ雑巾のようにヌメッとこちらの心の裏側に張り付いてくる独特の癖のある歌声の持ち主で、当方は初めて聴く人だが、それなりにキャリアは長いのではないか。
このアルバムの中に男性歌手とのデュエット曲が2曲あるのだが、そのデュエット相手に合わせる彼女の歌声は、楚々たる印象のうちにも、何とも言えない淫靡なエロティシズムを醸し出していて、これは深い世界だなあと感心した次第。
バックの演奏がまた傑物で、生のピアノが前面にでているのだが、これがレコーディングでプレイする内容ではないだろう、というもの。どちらかと言えばボイストレーニングの際にコーチの先生が弾くようなピアノ、という感じだ。それに従うリズム隊も、ズンチャカチャッチャ、ズンチャ、ズンチャとなんの工夫もないルーティン・ワークに終始し、全体としては田舎の温泉町のホテル最上階のサパークラブの風情が漂う。そいつがまた、黄千芸のレイジーな演歌に似合っているのだった。
どういう経緯か分からぬが、遠い昔に日本から、おそらくは民衆の口から口へと歌い伝えられつつ台湾の地に移入した演歌音楽。それは昭和30年代あたりで本家たる日本演歌の影響を離れ、台湾独自の道を歩き始めた。
結果、生まれたのは、我ら日本人にはたまらなく昔懐かしい演歌の響き、でもよく聴くと深いどこかで決定的に違っている、そんな不思議な音楽。
その音楽が抱きしめた台湾の人々の不安と孤独。いくつもいくつもの夜が、南の島の岸辺を洗った。
そして今夜も、田舎町のサパークラブの夜は明けない。