南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

千葉県弁護士会史から~国広稔弁護士の戦犯裁判弁護人のこと

2021年05月06日 | 歴史を振り返る
戦犯裁判というと東京裁判ばかりが有名ですが、裁かれた人数は圧倒的にBC級戦犯裁判の方が多いのです。しかし、研究の対象となったのは、東京裁判の方で、BC級裁判の研究はそれに比べれば少ないのが現状です(それでも近年はBC級裁判に関する研究を見かけるようになってきましたが)。

 弁護士はBC級戦犯裁判の弁護人として関わってきたのですが、その記録はほとんどなく、また顧みられることもなく忘れられてきた歴の一つです。
 各弁護士会が自分たちの会の歴史、いわゆる「会史」を発刊したのは、1970年代から1990年代だったのですが、この点についてはほとんど触れられていません。
 例えば、横浜裁判(BC級裁判)に関わった横浜弁護士会(現:神奈川県弁護士会)ですら、会誌編纂時点(1980年台)には戦犯裁判への取り組みや弁護士が取り組んだ戦犯裁判についての具体的な検討が欠落しており、「法廷の星条旗~BC級戦犯横浜裁判の記録」(日本評論社)を出版したのは2004年になってからのことです。

 千葉県弁護士会史(1995年)でも、戦犯裁判についてはまとまっては取り上げられておらず、断片的な情報があるばかりです。
 しかし、断片的ではあっても興味のある事柄を収録しています。
 ひとつは、昭和21年5月29日付の「軍事裁判につき提出」するとした弁護士名簿の一覧です(弁護士12名の名前が掲載されているもの)。弁護士会史の著者は、「これは戦犯裁判の弁護担当希望者名簿であろうかと思われる」との所感を述べていますが、インタビューでこの名簿について聞かれていないのが残念です。
 この「軍事裁判につき提出」した弁護士の名簿については、以前記事にしました。
 https://blog.goo.ne.jp/lodaichi/e/a495270ffb8d3cd9ed7fe8aa1abaffce

 また、シンガポール等で行われた戦犯裁判の弁護をしたというインタビュー記事があります。
 国広稔弁護士へのインタビューです。
 同弁護士は昭和2年に弁護士登録。戦犯裁判の英軍関係の法廷の弁護を自ら希望しました。同弁護士が赴いたのはシンガポール、ボルネオなどでした。シンガポールに1年半、ボルネオに4ヶ月、香港に6ヶ月滞在したとのことです。

 「国広稔弁護士」と書きましたが、これはインタビュー記事の題名が「国広稔先生に聞く」とあるからなんです(千葉県弁護士会史p405)。しかし、同書末尾にある「入会者名簿(昭和21年以降)」には、「国廣稔」という弁護士がでてくる。昭和24年12月7日に東京弁護士会から千葉弁護士会(当時)に移籍してきたという記録なのです。おそらく同一人物なのではないかと思うのですが、同じ書籍でこういう表記が間違っているのは非常に困る。

 まあ、その点は置くといたしまして、国広弁護士(と、こちらの表記で以降統一しますが)は、どうも戦犯裁判に関わった1946(昭和21)年当時は、東京弁護士会所属だったようです。
 どこの弁護士会に所属していたのかというのは、弁護士の戦犯裁判への関わりを考える上では、結構重要だと思っておりまして、先程言及した「軍事裁判につき提出」の弁護士名簿は昭和21年5月29日付なわけです。ということは、おそらくこの日までは千葉弁護士会では、軍事裁判には弁護人としては関わっていない。国広弁護士は、戦後すぐは東京弁護士会だったから、軍事裁判の弁護人の話が回ってきた、そういう理解になるのではないかと思います。
 
 国広弁護士は、「終戦になって、また私の生活は一変しました。戦後の戦争犯罪人裁判の英軍関係の法廷の弁護人を希望したのです。」と発言しています。弁護人にどのようになったかという点について伺えるのはこの発言からだけなのですが、ここからは、弁護人の募集があって、それに応じるというような仕組みだったのではないかと思われます。

 国広弁護士が東京弁護士会に移籍したのは昭和18年。それまでは新潟県で玉井潤次弁護士とともに仕事をしていたのですが、「玉井先生が逮捕されたこともあり健康を害され、また戦争が激しくなって弁護活動も思うようにできなくなり、昭和18年に一旦は東京弁護士会に入りましたが、食糧事情も窮迫してきましたので、家内の縁で成田の転居したのです。成田ならなんとか食べるものも手に入るだろうという考えでした。」との発言からは、戦時中の弁護士の生活の姿が浮かびます。

 シンガポールでは国広弁護士はイギリス軍の豊かさに驚きます。
「日本は敗戦で食料不足の時ですから、行ってみてびっくりしました。岩国から軍用飛行機でたったのですが、食堂でバターや砂糖がそのままテーブルにほったからかしてあったことにびっくりしたんです。なにかとご馳走になりました。英国は紳士の国ですから、案内の少佐がケーキなどを買ってきてくれたりしてね。こっちが困っていて食べるものもないことを知っていましたからね。」
  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする