『砂の女』
~「生業(なりわい)」の危機と「密」~
☆初めに☆
劇中の緊迫感は、男や女や集落やの設定場面から出て来るものばかりではない、紛れもなく「現状/現実」の中で演じられるから生まれるのでしょう。「マスクをすることなく絶叫する、口元からは大量の飛沫が出されている」のです。そんな舞台が、現実とどんなニアミスを起こすのかというものがもたらすのでしょう。
たくさんのものを見逃してしまったな、期せずしてやって来た圧巻のラストでそう思いました。
曇天(どんてん)の世田谷パブリックシアターには、いつにない緊張がみなぎっていたと言えます。でも見終わってみれば、これがたまらない感動の裏に張り付いたのです。
1 「失踪(しっそう)」
「家出」は、いたたまれない気持ちを抱えながら、家と「峻別」する行為を指す。そこには置き去りにされるものがいる。置き去りにされたものは、決して頼られることなかった存在でもある。だから置き去りにされたものは、出て行った理由も探す。この物語は「家出」ではない「失踪」を、人々と本人が選択するのである。つまり、出て行った「男」(仲村トオル)の所在も理由も分からない。残された人々は男を諦(あきら)め、ついには憎んだ。「そのうち帰って来るさ」という心情は、徐々に「いなくてもどうということもない」気持ちになる。最後に彼らは「これは失踪だ」とした。男の行為が「理解不能」であることを考えれば、それが本人の「勝手な」行為だからだ。そして、迷い込んだ砂丘に男が残ると決めた時、この主体的「失踪」なる事態は完成する(ちなみに「砂丘」は、実際は「砂浜の穴」なのだが、英語版タイトルには「dunes(砂丘)」とある)。
それまで男は、出先の村の人たちに「拉致(らち)」され、砂丘に幽閉されたと思っていた。何度も地上への脱出を試みては、砂の壁を仰いだ。しかし、男が砂丘からの脱出を自らの意志で「やめ」た時、誘拐されたのではなく自ら「姿をくらます」ことになった。「地上ではないどこか」を目指すのである。
男が巻き込まれた「不可解」は結局、人間が日ごろ行っている「生業」だったと思える。
2 「密」
男が降ろされた「砂丘の底」に「女」(緒川たまき)はいた。家でスコップを振るい砂をかき出す女は、そうしないと村が砂で埋もれるからだという。そうして毎日、砂をかく。男は、こんな不便な生活のどこがいいのか、さっさとここから出なければいけないと訴える。村で言葉が通じないと感じていた男は、砂丘の女とも同じ気分を味わう。本当は相手にされていないだけだったことに男が気づくのは、最後の方だ。「言葉が通じない」のは男の方で、それを「思い知る」ことになるのを、村や女は分かっていた。人の生業(なりわい)に優美も野蛮もない、それを男は知らない。生業とは日々食べ/排泄し、就寝/起床し、生殖(性)行為をすることである。生業にとっては、リズムを崩さないことが一番だ。それで女は砂をかき、村人たちは「助っ人」を探し出して「拉致」する。
男が降ろされた「穴倉」を、文明や人類の消極的場所と言うのはたやすい。ある選択をしたら、それが母体だったとかいう聞いた風な「母胎回帰」は分かりやすい「退行」かも知れないが、とりあえず、出会ったばかりのふたりは「男と女」ではなかった。男は地上に執着し、家を壊して地上への足場を作ろうともする。「目の前で女と交わるのを見せろ」と村人たちに言われた時、飢えに負けて要求に応えようとする男を、女は激しく罵倒する。「飢えに負ける」男に性的偏向を重ねたくもなるが、男の目指すのは女体ではなく、「地上」だった。男が変わるのは、腰を据えて「砂をかく」と決めてからだ。この時男は穴への「退行」ではない、「潜伏」という場所に移行した。「失踪」という選択を開始したのだ。ふたりは夫婦(めおと)の会話をするようになる。すべての生業のリズムが整い出す。
そして男でもない女でもなかったふたりが、やっと男と女(らしきもの)になったと思った瞬間引き裂かれた。あれほど帰りたいと思っていた「地上」に、男は村人たちに女だけを託す。自分だけが砂丘に置き去りにされる。この時、穴からの逃亡に必要なはしごがまだ残っていたというのに、男は砂丘に残る。あんなに距離を置いた人たちとの「密接」な関係が誕生している。これを私たちは「親密」と呼んでいるはずだ。そして、このいきさつを「和解」というのだろう。男が前の街に戻ったとして、都会人は、どうして戻って来た/裏切者などと、口々に罵(ののし)るような気がしてならない。男は自ら姿をくらまし、失踪したからだ。でもどうあろうと、男は自分がいた場所を静かに見つめ、揺るがない気がする。
「急がなくてもいいかな」という男の抑制のきいた言葉と表情が、ずっしりと劇場を包んだ。
☆後記☆
来てくださいと言っていいものかという連絡には、現状をお気楽に考える私なんかには想像もつかないものがあったはずです。現場には、問われる「責任」ばかりではない、「使命」に近いものがあったんだろうと思いました。愛知県のコンサートの顛末を見ているうちに、そう思えて来たのです。靴の消毒や遠くからの検温に終演後のトイレ使用禁止など、昨年の『ベイジルタウンの女神』以上の気遣いと決意を感じた次第です。
兵庫の公演も終えた今、もうこの舞台はないのですが、DVD発売が予定されているそうです。皆さん、ぜひご覧になるといいです。
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藤井君やりました。元気もらえますね~ オオタニさーん、最後まで楽しんでね~
今週も「和さび」です。右上はアジとホタテ(ハム巻き)フライ。家呑みセットはイチジクの生ハム巻きやシラスの卵焼きなど。そして何より、おにぎりが「新米」なんです。ありがたい!
こども食堂「うさぎとカメ」、明日ですよ~ 天気が心配です。