楢葉郷
~千年の時~
☆初めに☆
台風14号による雨風の福島でした。楢葉の渡部さんのお庭では、たわわになったカリンが風に揺れてました。
せっかくの実ですが、食べられないから捨てているんだそう(この言い方、テレビでの決まり文句になってます。嫌ですね)。
小雨の中を牛さんが草を食べてました。向こうに柿の実がなってます。
今回の福島は、前半は楢葉町の歴史資料館。後半は9月にオープンした「原発災害伝承館」への道行でした。
1 「南相馬世界会議」で
「開いてるのに、誰かと思うよ。びっくりした」
資料館の職員の方が、おっかなびっくり非常口から顔を出した。
前に「楢葉郷(郡)」と「標(しね)葉郷(郡)」、「双つの葉」が合併して「双葉郡」となったことをレポートした。もっと詳しいことを知るなら資料館がいい、と渡部さんたちに言われていた。ようやくこの日、町役場の近くにある歴史資料館に出向く。行き着くまでが結構面白かった。
コミュニティセンター内だが、大きくて分からず職員の方に尋ねた。すると、ホール奥にあった「閉館中」という看板と鎖をどけて、大丈夫ですやってますからと中に案内してくれる。階段下に行くとシャッターが降りてるのだが、今度は横の非常口のドアを何度も叩くのだ。ホールには大きな音が響いた。そして、係長さんが顔を出したのである。案内してくれた女の方は、ドアを一生懸命押していたのだが、ドアは「引き」だった。ホントにありがたい。
福島県で「千年の時」を初めて感じたのは、震災からもうすぐで一年を迎えようという2012年の2月、南相馬で行われた「南相馬世界会議」で、だった。東大アイソトープ研究所長・児玉龍彦(当時)を始めとした学識者(友人の山本哲士も)や福島県内の高校生もパネラーとして登壇した、大がかりな討論会である。そのパネラーのひとり、都市建築研究者・岡本哲志は、原発事故からの復興ポイントは「相馬野馬追(のまおい)祭」の再構築にある、とした。野馬を育て戦力とする平将門に端を発する相馬野馬追祭の作り上げた場所は、千年以上の時を受け継がれて来た、というレポートだった。討論会が終わったあとのことだ。姿が隠れて見えなくなるほど、地元の人々は会場の外で岡本氏を囲んだ。反省会の時、岡本氏に確認したところ、自分たちがやって来た祭はあれほどにも長い時と広大な空間を抱えていたのかと、みな驚きを口にしたという。人々は「千年の時」と、京(京都)~江戸(柴崎)~下総(しもうさ)~相馬という広大な空間を意識せずに、野馬追祭をやっていた。
前も書いたが、将門が統括したエリア(相馬)の南限(双葉/大熊)と、相馬氏と岩城(いわき)氏の挟み打ちにあいながら抵抗したエリアの中心(夜ノ森)が共に原発立地点だったということを、私は偶然とは思えない。これから調べるが、多分に「夜ノ森」は後からの漢字表記であって、民俗学的観点からすれば、もとは「余の守」という意味合いだったと思っている。
そんなことを係長さんと話した。すると、この辺りは地盤が上下に入り組んでいる、ちょうど固い/高い処が「夜ノ森」地区だったのではないでしょうかという、私にすれば渡りに舟のような答が返って来る。そして、熱心にご研究のようだ、郷土史は買うには高額だし該当(中世)部分だけでも送ります、と言う。なんとも感謝に耐えない。
またこれで、双葉という場所が見えてくる。
2 さつま芋
この日たまたま、渡部さん家で野馬追祭の話になった。今は馬が足りなくてよ、競馬の馬も使うんだとよ、きっとおとなしめの馬を連れて来んだな、とおばあちゃんが言う。そうかなあと私は異議を唱える。ここから野馬追祭の会場まではずいぶん遠いのだが、渡部さんたちの口ぶりからは、すぐそこで行われているように思える。千年の時を超えて、ここでも話は尽きない。
今回は美味しいさつま芋をたくさんいただきました。キャベツやキュウリも。
そして前回初登場した猫ちゃんたち。段ボールの家から、立派なマンションに引っ越しました。気持ち良さそうなんですが、ピンぼけです。
☆後記☆
明日になってしまったんですが、子ども食堂です。好評だったので、焼きそばの第二弾です。お天気が心配ですが、近くの方、良かったら来てくださいね。
☆☆
前回の李珍宇(イジヌ)の記事のことです。どうも冤罪(えんざい)と受け取られた方が結構いたようなので確認しておきます。私の書き方が悪いのでしょうが、李はやはり屈折していて難しい。冤罪事件として取り上げた人たちもいるのですが、私は重視していません。李が殺人を犯しているのは間違いないと思えます。公判記録によれば、取り調べで強姦未遂なのに書き換えられた・警察への電話を何回したか・電話が回を追うに従い段々長くなった理由等々が、殺害時の様子も含めて実に淡々と李の口から語られます。それがかえって、李珍宇の絶望の深さを感じさせるものとなっています。そういう意味で「貴重な公判記録と思えます」と書いたのです。