『絶歌』(上)
~「再犯」としての手記~
1 詳細な描写(びょうしゃ)
14日(日)夜の「Mr.サンデー」で、特集していた。コメンテーターが次々に発言した。
「ひどい本だ」
初めは私もそう思った。途中で放り出した読者も多いと思う。
神戸連続児童殺傷事件の犯人による『絶歌』は、二部構成となっている。第一部は、少年Aが事件を起こして逮捕され、医療少年院を退院するまで。第二部が社会に復帰して現在にいたるまでの話となっている。
第一部は、不快感を伴わずに読めるものではない。あの時に世間を恐怖に陥(おとしい)れた文章力は健在だが、Aが過去の記憶におののいているとは感じられない。また、生命を弄(もてあそ)ぶ初めての対象のなめくじと、次の猫たちの解体の様子は、これでもかと思われる詳細さである。淳君犯行の部分についての記述がないのだが、おそらくそれも、当初は同じく事細かであったことは疑いえない。
この本を読んだものは誰でも、Aが相も変わらない「エリート意識」を持ち続けていることを感じるに違いない。
○(僕は)スクールカーストの最下層に属する「カオナシ」のひとりだった
○僕は病んでいた。……「精神病か否か」という次元ではない。「人間の根っこ」が病気だった
これらが劣等感/自己嫌悪というより、Aの「選び抜かれた」意識から派生した露悪な姿勢であることを、私たちはずっと前に見てしまっている。「客観的姿勢/視点」を持つ、いや手放そうとしないAに、私たちはなかなか共感出来ないはずだ。担当刑事や係官を「禿げ頭/一角獣/ワトソン」とたとえる場違いな表現は、あの時に警察を罵(ののし)り倒した「(犯行)声明文」を、私たちに思い起こさせる。また、あえてゲバラやガンジーを取り上げ蔑(さげす)み、妙にドストエフスキーや太宰といった文豪を引用する手法も、以前と同じだ。ニーチェの文章はこれで二度目と記憶しているが、誰のものか告げないままの引用になっていた。
第一部を読んで、私は1981年、パリで女子大生を殺して食べてしまった佐川一政、その佐川の手で書かれた『霧の中』(1983年)を思い出した。彼女を、自分のアパートに呼んで殺すのである。指先から脳まで解体し味わう描写(びょうしゃ)は、微に入り細に入りの克明さだ。そして、佐川も少年Aと同様、被害者が死んだことを知ると「泣き崩れる」のだ。さらに、佐川は『霧の中』巻末に、西洋との文化比較として、「日本と西洋の間」なる川端康成論を載せていることを補足しよう。あくまでカニバリズム(人肉嗜食)を展開する上での取り上げだが。
Aは医療少年院を退院後、淳君の両親へ毎年3月に手紙を書いている(常に膨大な量だったという)。そして両親は、メディアを通してずっと思いを語ってきた。今年の3月に手紙を受け取ったあと、
「もういいのではないかと思っている」
という見解を、両親は出している。この「もういい」の意味することは、Aの更生を期待する言葉だったのだろうか、それとも「もうたくさん」の方だったのだろうか。
これらの手紙の中でも、Aはこの本で展開したように、過去の凄惨(せいさん)な場面を再現していたと思える。少年院退院後は、第三者による手紙のチェックは入らない(仮退院の期間は続くという)。本書にもあったが、この手紙の送付はメディアが仲介したもので、両親はきっと「生」の手紙を読んでいる。そして先程の、
「もういいのではないか」
という発言なのだ。その後突然の出版に驚き、出版の差し止めと販売停止を願った。内容が想像出来たからではないだろうか。両親に無断の出来事だったことで、充分内容を暗示していた。
それが、反省の弁だけでなく、なぜ今さらとも言える「過去」の記述が両親への手紙にあったと思える理由である。
第一部の最後の方で、Aは、
「僕は、自分が、自分の罪もろとも受けいれられ、赦(ゆる)されてしまうことが、何よりも怖かった。あまりにも強烈な罪悪感に苛(さいな)まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。……自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐えがたい、自分への『冒涜(ぼうとく)行為に他ならなかった」(124頁)
と言う。これがAの『絶歌』を書くひとつの動機であったことは間違いないと思われる。この動機からすれば、「反省していないのか」なる批判は、的(まと)を得ないものだ。「確信犯」なのである。Aの中で事件は終わっていない。だからこそ、筆者は「少年A」を名乗る。「もう立派な成人、卑怯ではないか、名を名乗れ」と道義的な決断を迫る批判も、やはり見当違いと思われる。
2 「無責任」のあり方
本の発行に抗議する両親のコメントが発表され、少しばかり躊躇(ちゅうちょ)はあったが、私はすぐに購入した。この事件は見過ごせないからだ。淳君のお父さんは、
「この事件は非常な特殊性を持ったもので、事件の再発を防止するというようなものではない」
とのコメントを出した(私は「Mr.サンデー」で見た)が、神戸事件の時、私たちに与えた衝撃は、まだしっかりと形をとっている。その上「酒鬼薔薇」に心酔し、いや、より正確には「酒鬼薔薇」の名前を借りて、事件を起こすものが未だにあとをたたない。申し訳ないが、Aが「悪魔/異常/理解する必要のない」人間なのかどうか、確かめないといけない。また、『絶歌』を出すことは、「表現の自由」「なに言おうと勝手だろ」という馬鹿げたものではない。こんなもの、本人も出版社も覚悟して出すものだ。そういう資料であるのかどうか、確かめないといけない。
今週の『週刊文春』が、この本について特集している。まずは「出版社の覚悟」を知る上で、発行までのいきさつに注目しておきたい。Aから突然手紙をもらい、途中まで編集した幻冬舎の見城徹社長の「弁明」は見逃せない。興味深いのは、出版にあたって、社長がAに申しつけた三つの条件である。
① 贖罪(しょくざい)意識を持ち、それが世間に理解されること
② 実名で書くこと
③ 遺族にあいさつに行くこと(許可は難しいと思われるので)
この条件をクリアするには「二年はかかる」と思っていた社長は、しかし今年一月、「週刊新潮」の「Aの本、幻冬舎から出版」なる記事により撤収を決める、とある。その後、社長が候補としてあげた三つの会社から、Aは太田出版を選んだという。社長は続ける。
○ 太田出版から出したのは彼(A)の独自の判断です
○ 僕が太田出版に対して「やってくれ」と言ったわけじゃない
○ 僕は(『絶歌』を)読んでないんだけど
僕は関与していませんと言うのだ。こういうのを無責任と言わずして何というのだろう。何より、手記出版にあたって必要な三つの条件を、太田出版に引き継いだ様子が微塵もない。私は、この条件の一部ではあるが、Aがこの条件のクリアを試みた気配を感じている。それはいいのだ。それよりも、自分の処ではだせないが、余所(よそ)だったら出せるというこの醜悪な流れを、どうやって帳尻合わせることが出来るというのだろうか。
さらに、不可解/不愉快だったのは、太田出版の編集者(部)の見解を、ここ(『週刊文春』)で初めて見たことだ。最初に本書で出すべきことだ。以下は『…文春』の、太田出版編集者のものだ。
「私は編集者としてひと言も本文に言葉を加えていません。直す時は本人に伝えて彼が自分で直している」
この部分、ごちゃごちゃ言わずに「手を加えました」と正直に言ってくれればいいだけのことだ。それに私たちが気づかないとでも思っているのだろうか。
「手を入れると世界観を崩してしまうので、下手に変えられないんです」
こんな言い訳でもいいから、本書にどうして書かなかったのだろう。事件の渦の中心にいる人物が書を出すのである。それにあたっての「覚悟」は、幻冬舎も太田出版も持っていなかった、と断ずるところだ。日本中を揺るがし震撼させた事件の犯人の出版とあれば、その是非について世論が二分することは百も承知だったはずだ。そのリスクを、ひとりは避け、もうひとりは頬かむりした。
先の、佐川一政による『霧の中』の時はどうだったか。編集部(「話の特集」)は、出版に際し、長文で解説を加えている。佐川を断罪するでもなく、しかし擁護するのでもない姿勢は、出来るだけ事実に沿って事件の解明しようというものだと思えた。それで、私たちが感じた「不気味な衝撃」を形にしようとしていると思えた。
Aの気持ちは今どこにあるのだろう。それが希望であるかどうかは別なことだが、私は第二部を読むことでいくらか見えたように思っている。
☆☆
それにしても、詳細なAのその後の記述は、Aの現在を特定するように思います。その時に、
「『正義』を自称する『集団的悪意』は野放図に肥大化する」(関川夏央「楽には読めなかった第一部の暴力描写」(同『文春』)より)
ことでしょう。その時、Aはどう対応するのでしょうか。これこそ自分が望んだものだとするのでしょうか。まるでそれは『異邦人』(カミュ)のムルソーのようではないかと言ったら、Aは狂喜(「狂気」ではありません)するのでしょうか。
☆☆
この特集では、久田恵の記事が良かったと思えました。母親の存在が時に消え、時には積極的な姿として現れる。Aにとって母親は、そんな特異な存在だったのではないか、という視点だったと思います。
筋を通すことが、今もAには難しいことが分かります。他の記事には、筋が通らないとか筋を通せという見解が多いと思いました。
☆☆
久しぶりに、金曜の定期を無視しての発行です。気持ちが急(せ)いて仕方ないのです。次号「下」もなるべく早め、3、4日後に出したいと思っています。よろしくです。
~「再犯」としての手記~
1 詳細な描写(びょうしゃ)
14日(日)夜の「Mr.サンデー」で、特集していた。コメンテーターが次々に発言した。
「ひどい本だ」
初めは私もそう思った。途中で放り出した読者も多いと思う。
神戸連続児童殺傷事件の犯人による『絶歌』は、二部構成となっている。第一部は、少年Aが事件を起こして逮捕され、医療少年院を退院するまで。第二部が社会に復帰して現在にいたるまでの話となっている。
第一部は、不快感を伴わずに読めるものではない。あの時に世間を恐怖に陥(おとしい)れた文章力は健在だが、Aが過去の記憶におののいているとは感じられない。また、生命を弄(もてあそ)ぶ初めての対象のなめくじと、次の猫たちの解体の様子は、これでもかと思われる詳細さである。淳君犯行の部分についての記述がないのだが、おそらくそれも、当初は同じく事細かであったことは疑いえない。
この本を読んだものは誰でも、Aが相も変わらない「エリート意識」を持ち続けていることを感じるに違いない。
○(僕は)スクールカーストの最下層に属する「カオナシ」のひとりだった
○僕は病んでいた。……「精神病か否か」という次元ではない。「人間の根っこ」が病気だった
これらが劣等感/自己嫌悪というより、Aの「選び抜かれた」意識から派生した露悪な姿勢であることを、私たちはずっと前に見てしまっている。「客観的姿勢/視点」を持つ、いや手放そうとしないAに、私たちはなかなか共感出来ないはずだ。担当刑事や係官を「禿げ頭/一角獣/ワトソン」とたとえる場違いな表現は、あの時に警察を罵(ののし)り倒した「(犯行)声明文」を、私たちに思い起こさせる。また、あえてゲバラやガンジーを取り上げ蔑(さげす)み、妙にドストエフスキーや太宰といった文豪を引用する手法も、以前と同じだ。ニーチェの文章はこれで二度目と記憶しているが、誰のものか告げないままの引用になっていた。
第一部を読んで、私は1981年、パリで女子大生を殺して食べてしまった佐川一政、その佐川の手で書かれた『霧の中』(1983年)を思い出した。彼女を、自分のアパートに呼んで殺すのである。指先から脳まで解体し味わう描写(びょうしゃ)は、微に入り細に入りの克明さだ。そして、佐川も少年Aと同様、被害者が死んだことを知ると「泣き崩れる」のだ。さらに、佐川は『霧の中』巻末に、西洋との文化比較として、「日本と西洋の間」なる川端康成論を載せていることを補足しよう。あくまでカニバリズム(人肉嗜食)を展開する上での取り上げだが。
Aは医療少年院を退院後、淳君の両親へ毎年3月に手紙を書いている(常に膨大な量だったという)。そして両親は、メディアを通してずっと思いを語ってきた。今年の3月に手紙を受け取ったあと、
「もういいのではないかと思っている」
という見解を、両親は出している。この「もういい」の意味することは、Aの更生を期待する言葉だったのだろうか、それとも「もうたくさん」の方だったのだろうか。
これらの手紙の中でも、Aはこの本で展開したように、過去の凄惨(せいさん)な場面を再現していたと思える。少年院退院後は、第三者による手紙のチェックは入らない(仮退院の期間は続くという)。本書にもあったが、この手紙の送付はメディアが仲介したもので、両親はきっと「生」の手紙を読んでいる。そして先程の、
「もういいのではないか」
という発言なのだ。その後突然の出版に驚き、出版の差し止めと販売停止を願った。内容が想像出来たからではないだろうか。両親に無断の出来事だったことで、充分内容を暗示していた。
それが、反省の弁だけでなく、なぜ今さらとも言える「過去」の記述が両親への手紙にあったと思える理由である。
第一部の最後の方で、Aは、
「僕は、自分が、自分の罪もろとも受けいれられ、赦(ゆる)されてしまうことが、何よりも怖かった。あまりにも強烈な罪悪感に苛(さいな)まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。……自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐えがたい、自分への『冒涜(ぼうとく)行為に他ならなかった」(124頁)
と言う。これがAの『絶歌』を書くひとつの動機であったことは間違いないと思われる。この動機からすれば、「反省していないのか」なる批判は、的(まと)を得ないものだ。「確信犯」なのである。Aの中で事件は終わっていない。だからこそ、筆者は「少年A」を名乗る。「もう立派な成人、卑怯ではないか、名を名乗れ」と道義的な決断を迫る批判も、やはり見当違いと思われる。
2 「無責任」のあり方
本の発行に抗議する両親のコメントが発表され、少しばかり躊躇(ちゅうちょ)はあったが、私はすぐに購入した。この事件は見過ごせないからだ。淳君のお父さんは、
「この事件は非常な特殊性を持ったもので、事件の再発を防止するというようなものではない」
とのコメントを出した(私は「Mr.サンデー」で見た)が、神戸事件の時、私たちに与えた衝撃は、まだしっかりと形をとっている。その上「酒鬼薔薇」に心酔し、いや、より正確には「酒鬼薔薇」の名前を借りて、事件を起こすものが未だにあとをたたない。申し訳ないが、Aが「悪魔/異常/理解する必要のない」人間なのかどうか、確かめないといけない。また、『絶歌』を出すことは、「表現の自由」「なに言おうと勝手だろ」という馬鹿げたものではない。こんなもの、本人も出版社も覚悟して出すものだ。そういう資料であるのかどうか、確かめないといけない。
今週の『週刊文春』が、この本について特集している。まずは「出版社の覚悟」を知る上で、発行までのいきさつに注目しておきたい。Aから突然手紙をもらい、途中まで編集した幻冬舎の見城徹社長の「弁明」は見逃せない。興味深いのは、出版にあたって、社長がAに申しつけた三つの条件である。
① 贖罪(しょくざい)意識を持ち、それが世間に理解されること
② 実名で書くこと
③ 遺族にあいさつに行くこと(許可は難しいと思われるので)
この条件をクリアするには「二年はかかる」と思っていた社長は、しかし今年一月、「週刊新潮」の「Aの本、幻冬舎から出版」なる記事により撤収を決める、とある。その後、社長が候補としてあげた三つの会社から、Aは太田出版を選んだという。社長は続ける。
○ 太田出版から出したのは彼(A)の独自の判断です
○ 僕が太田出版に対して「やってくれ」と言ったわけじゃない
○ 僕は(『絶歌』を)読んでないんだけど
僕は関与していませんと言うのだ。こういうのを無責任と言わずして何というのだろう。何より、手記出版にあたって必要な三つの条件を、太田出版に引き継いだ様子が微塵もない。私は、この条件の一部ではあるが、Aがこの条件のクリアを試みた気配を感じている。それはいいのだ。それよりも、自分の処ではだせないが、余所(よそ)だったら出せるというこの醜悪な流れを、どうやって帳尻合わせることが出来るというのだろうか。
さらに、不可解/不愉快だったのは、太田出版の編集者(部)の見解を、ここ(『週刊文春』)で初めて見たことだ。最初に本書で出すべきことだ。以下は『…文春』の、太田出版編集者のものだ。
「私は編集者としてひと言も本文に言葉を加えていません。直す時は本人に伝えて彼が自分で直している」
この部分、ごちゃごちゃ言わずに「手を加えました」と正直に言ってくれればいいだけのことだ。それに私たちが気づかないとでも思っているのだろうか。
「手を入れると世界観を崩してしまうので、下手に変えられないんです」
こんな言い訳でもいいから、本書にどうして書かなかったのだろう。事件の渦の中心にいる人物が書を出すのである。それにあたっての「覚悟」は、幻冬舎も太田出版も持っていなかった、と断ずるところだ。日本中を揺るがし震撼させた事件の犯人の出版とあれば、その是非について世論が二分することは百も承知だったはずだ。そのリスクを、ひとりは避け、もうひとりは頬かむりした。
先の、佐川一政による『霧の中』の時はどうだったか。編集部(「話の特集」)は、出版に際し、長文で解説を加えている。佐川を断罪するでもなく、しかし擁護するのでもない姿勢は、出来るだけ事実に沿って事件の解明しようというものだと思えた。それで、私たちが感じた「不気味な衝撃」を形にしようとしていると思えた。
Aの気持ちは今どこにあるのだろう。それが希望であるかどうかは別なことだが、私は第二部を読むことでいくらか見えたように思っている。
☆☆
それにしても、詳細なAのその後の記述は、Aの現在を特定するように思います。その時に、
「『正義』を自称する『集団的悪意』は野放図に肥大化する」(関川夏央「楽には読めなかった第一部の暴力描写」(同『文春』)より)
ことでしょう。その時、Aはどう対応するのでしょうか。これこそ自分が望んだものだとするのでしょうか。まるでそれは『異邦人』(カミュ)のムルソーのようではないかと言ったら、Aは狂喜(「狂気」ではありません)するのでしょうか。
☆☆
この特集では、久田恵の記事が良かったと思えました。母親の存在が時に消え、時には積極的な姿として現れる。Aにとって母親は、そんな特異な存在だったのではないか、という視点だったと思います。
筋を通すことが、今もAには難しいことが分かります。他の記事には、筋が通らないとか筋を通せという見解が多いと思いました。
☆☆
久しぶりに、金曜の定期を無視しての発行です。気持ちが急(せ)いて仕方ないのです。次号「下」もなるべく早め、3、4日後に出したいと思っています。よろしくです。