実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

『絶歌』(補 1)  実戦教師塾通信四百四十九号

2015-06-26 15:36:59 | 子ども/学校
 『絶歌』(補1)
     ~「生活」という時間~

 ☆☆
この号で李珍宇に言及するはずでしたが、この号もついつい長引きました。そして、李珍宇を論ずるなら、1967~69年にわたった連続殺人の犯人、当時19歳の永山則夫を書かないわけにはいかないことに思い至ったのです。というわけで、次号「補2」で、書きたいと思います。よろしくお願いします。


 1 「死んじゃえばいい」

 私の知る編集者がひとり、怒りをぶちまけた。それだけでも、私がこの『絶歌』を論評して良かったと思えた。このブログ『絶歌』(上)で引用した太田出版編集者の、

「私が手を入れると世界観を崩してしまう」

とは笑止千万、一体なにが「世界観を崩」してしまうような決定的要因だったのか、どんな立場で編集したというのか全く知らぬ顔を決め込んで、どの面下げて「出版」か、という勢いは私の溜飲(りゅういん)を下げたのだった。
 また、Aが淳君の両親にあてた手紙の「膨大であった」ことを、
「この分量が示すことは、自分の気持ちを伝える『手紙』ではない」
「自分を語るものだったはずだ」
という指摘に、私は納得したのだった。
 さて、この太田出版は、前掲『文春』にもあったように、大ブレイクした『完全自殺マニュアル』(1993年)を出した会社だ。どんな自殺方法が楽なのかというマニュアル本である。その時の編集者・落合美砂氏が今回の『絶歌』を担当している。この『完全自殺…』のあとがきは、今回のことを考える上で参考になると思われる。

「こういう本を書こうと思ったもともとの理由は、『自殺はいけない』っていうよく考えたらなんの根拠もないことが、非常に純朴に信じられていて……自殺する人は心の弱い人なんてことが平然と言われてることにイヤ気がさしたからってだけの話だ。……『イザとなったら死んじゃえばいい』っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通しを良くして、ちょっとは生きやすくしよう、っていうのが本当のねらいだ」

こんな調子なのだ。確かにこのあとがきは、著者のものであって編集者が書いたものではない。しかし、自殺礼賛(らいさん)とも取られかねないこの書を出すにあたって、編集者は配慮が必要と判断したのだろう。では今回の『絶歌』に関してはどうだったのか。さすがに今回は、

「イザとなったら殺人をやっちゃえばいいし、解体するのもいいんじゃないか」

と、編集者(部)は書けなかったようだ。太田出版の落合氏は、公的な場では言い訳以外に未だ何も語ろうとしていない。そして、何も言わずに5万部を増刷した。当ブログ読者はこれを読んで、幻冬舎の見城社長がなぜ太田出版を選んで(本人は「違う」と言うが)引き継いだのか、納得してしまうに違いない。ついでに、その見城社長の格言を思い出したい。

「顰蹙(ひんしゅく)は金を出してでも買え」

である。まさしく、その現場を目の当たりにした思いだ。

 2 「大人の責任」
 たくさんのご意見/感想をいただいた。

「そうだったのですか」「確かに」
「(『絶歌』を)読みたいとは思いませんが、この事件から目を背けてはいけないと思っていますし、改めてそう思いました」等々。

きちんと読んでくれたあとがうかがわれて有り難い。また、その反対に、

「もう勘弁してほしい」「あまり知りたくない」
「何と言われようと許せないものです」
「こんなものを読もうという神経を持ちあわせていません」等々。

という意見もあった。でも、あくまで私のブログを読んでのことである。ブログだけでも読んでしまう/読ませるのは、少年Aの「力」であり、事件が与えた衝撃だ。
 私が気になって仕方がなかったのは、

「こういう事件は、大人の責任が問われないといけない」
「国や社会が悪いからこういう事件が起こるのではないでしょうか」
「いじめも少年の犯罪も、同じ病根から来ていると思います」等々。

といったものである。
 もともと私のブログを読もうという人たちは、大体が真面目な人たちで、「なんか面白いことないですか」的発想の連中は、めったに(たまにあるということです)やって来ない。そしてさらに、私に共感している人たちが大体だ。だからこそますます、私にはこれらの共感は「安易」としか思えないし、それらを放置出来ない。
 ただならぬ現実を前に、おそらく私たちは性急に解決/解答を求めている。しかし、私たちはまだ「なにが起こった/起こっているのか」を見極めないといけない場所にいる。そういう時に、この「大人/社会/国の責任」なる方向性は、大体「今より窮屈な社会」を呼び込む。

 3 「ゆとり」
 先日、
「タバコ15歳に販売」
なる「事件」が騒ぎとなった。処罰されるべきは店主か販売員か、そして買った15歳の本人は、という議論である。
 この事件、喫煙中の少年を見とがめた警官が、この少年を補導して聞き出すというのがきっかけだったようだ。これが裁判になったという。これこそが異様でなくて何だろう。タバコをガキンチョに売ったことが大問題になっているのだ。普通だったら、いや少し昔だったらというべきか、警官は少年と一緒にコンビニに出向き、店長と販売員にお灸(きゅう)をすえる、そして家庭連絡を行い、改めて「もうするなや」と本人にたしなめる。これで一件落着だ。学校への連絡はケースバイケースである。「大人の責任」が言われるとしたら、言ってみれば、
「お互い顔が見える」
場所だったかどうかだ。この場合、タバコ少年は、たくさんの人に顔を認証され、諭(さと)されている。しかし、(自動的)システムは顔を遠ざける。ニュースを良く吟味すれば分かるが、今回問題になったことは、「未成年者にタバコを売った」ことではない。

「せっかくのシステムが活用出来なかった/なぜ大人は活用しなかった」

が問題にされている。「安心」のために動くのは「人」なのに、それを「システム」でまかなおうとすれば、新たな「不安」が生まれることが示されている。15歳にタバコ販売というこの「事件」は、タッチパネル(年齢確認システム)の導入が、タバコや酒を飲む若い連中を、世の中という場所からさらに遠ざけたことを教えている。
 昔、それも少し前までは「タバコ屋のおばあさん/おばさん」がいた。彼女たちは、未成年にタバコを売ったり売らなかったり、ひと言言ったり言わなかったりした。事情は様々だが、大体がきっと、その時の「空気」で決めていた。はっきりしていることは、子どもたちのそばに大人がいたことだ。彼女たちは、子どもの顔が見えるところにいた。
 ではどうしたらいいのだ。
 子どもの登下校時に黄色い旗を持ち、毎日朝と夕、子どもたちに声をかけている保護者や老人たちがいる。当番でやっている人やボランティアの人もいるのだろう。あれは「子どもの顔が見えるところ」に、大人がいることなのだろうか。私は、あの姿が「大人の責任」という看板に見えて仕方がない。少しでも子どもたちの「顔を見よう/見たい」というせっかちな姿に思えて仕方がない。
 子どもたちの不安な現状は、毎日ご近所や親を正門付近に集めるという「システム」を導入した。しかし、「見てないといけない」という動機は、見たことを「伝えないといけない」ことにつながる。こんな緊迫した空気を「見守る」とは言わない。いま校門は、人垣となって、木々や鳥のさえずりを妨(さまた)げている。みんなそれぞれの位置で生きることを「生活」と呼ぶはずなのだが、その中で生まれるものを「ゆとり」と呼んできたはずなのだが、ここでは「子ども対大人」という、正面から向き合うたったひとつの空間/関係をせり上げている。
 
 せめて、子どもたちの登下校の時、さりげなく散歩したりスーパーの買い物に行き帰りする(車ではダメなことはもちろんである)、という訴えをあちこちでつぶやいている私である。


 ☆☆
以前、ローソンなんですが、私がビールを買い求めたところ、いかにも腹が立って仕方がないという様子で、バイトの店員が、レジの向こうから自分の手を回してタッチパネルを押したのです。ああ、こういう若者がいるんだなあと、いやあ感動しました。

 ☆☆
仲間と話しました。なぜ避妊具のコンドーさんにはタッチパネルがないのだろうと。そういえば、コンドーさんに関しては、自販機にもどこにも「年齢確認システム」がないのです。コンドーさんは幼稚園児でも買える!って悪のりしてすみません。エイズ啓発という観点からすると、誰でも自由にということになるのでしょう。でもそれでも「R15」も「R12」も指定は必要ないのだろうかという感じで、けっこう盛り上がりました。

 ☆☆
今日から元通り、毎週金曜日発行に戻しました。次回は7月3日(金)発行予定です。よろしくお願いします。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
出版社は責任放棄 (福島 五夫)
2015-07-04 23:02:27
 この事件を理解する手掛かりとして「手記」は読む価値があると思う。問題は、遺族の気持ちだ。遺族の感情にも配慮する。それが出版社の役割ではないのか。
返信する
Unknown (琴寄)
2015-07-05 09:59:21
忘れてましたが、2000年発行『「少年A」この子を生んで…』(文藝春秋)の巻頭にも、編集部から刊行のいきさつが書かれています。
それと、この通信450号に対して「社会が悪いから犯罪が起こるのですね」という感想がやはり多くて、私の力不足を思った次第です。
返信する
誤読 (福島 五夫)
2015-07-05 15:57:59
> 私の力不足

 意を尽くそうと丁寧に書くと、読み手は細部に囚われて、筆者の言わんとするところを把握し損なったりします。自分の考えを伝えるのって、本当に難しいですね。
 私が、琴寄さんの文章を誤読していると感じたら、ぜひ、率直に指摘してください。;^^
返信する
読むということ (琴寄)
2015-07-06 11:10:54
少年たちが私たちを呼んでいることは間違いありません。でも私たちの現状は、少年たちのことを「私たちが呼んで導かないといけない」というものだ思われます。
私たちが子どもたちを「呼ぶ」のでなく、「読む」ことが肝要なのは間違いない。でも、「読む」ことを拒絶する子どもたちは、これから増えることはあっても減る傾向にはなりません。一方、どんなに拒絶しても、子どもたちはその姿を見せている。私たちは絶望することなく、子どもたちを「読む」ことが大切だと思われます。
子どもたちを「断罪」することではまったく変わらないことを、いい加減私たちは気がつかないといけないと思ってます。
返信する

コメントを投稿