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吉本隆明を偲ぶ  実戦教師塾通信三百六十六号

2014-03-19 11:38:34 | 思想/哲学
 吉本隆明を偲ぶ

    ~『横超忌(おうちょうき)』~


 1 偲ぶ(しのぶ)会


 吉本隆明が亡くなってちょうど二年(命日は16日)になる。
          
 火の秋の物語   
   -あるユウラシア人に-

ユウジン その未知なひと
いまは秋でくらくもえている風景がある
きみのむねの鼓動(こどう)がそれをしつているであらうとしんずる根拠(こんきょ)がある
きみは廃人(はいじん)の眼をしてユウラシアの文明をよこぎる
きみはいたるところで銃床(じゅうしょう)を土につけてたちどまる
きみは敗(やぶ)れさるかもしれない兵士たちのひとりだ
   ………以下略………
              (『転位のための十篇』より)

 NHK朝の連続ドラマ『あまちゃん』が終わった喪失感(そうしつかん)にとらわれた現象を「あまロス」と呼んでいるが、私たちの「隆明ロス」は続いている。
 17日、その二周忌『横超忌』が、東京・麻布台であった。『現代史手帖』の執筆(しっぴつ)者が中心と思われる、そうそうたるメンバーの集まりと思えた。私としては、あの人はこんな顔だったのか、という経験をさせていただいた感のある集まりだった。60~70人ほどの人が、隆明を慕(した)い、悼(いた)み、囲んだ。
          
祭壇におかれた「横超」というラベルの酒が、一体どこの酒蔵のものだったのか、最後まで分からなかったのが心残りとなった。この「横超」とは、
「他人の力(この場合は『仏の力』)によって、一気に浄土(じょうど)に往生する(いく)こと」
である。隆明を偲ぶために、この名前が使われている。うまく命名するものである。
 隆明が「特筆すべき三人の詩人」とあげたなかのひとり、吉増剛造があいさつ。私が若い時に、クラスの「学級便り」の冒頭を飾る詩として使わせてもらったことも何度かあったはず。まだ生きていたのかなどと失礼なことを考えてたら、まだ十分に元気だった。
 「絶叫(ぜっきょう)の詩人」として名高い福島泰樹は、この号の頭に引用した『転位のための十篇』を朗読。「いつもより遠慮(えんりょ)がちに読んだ」とは本人の弁であった。吉増と同い年ぐらいかと思ったら、なんと私より五つほど年下で、吉増より10も年下だった。分からんものだ。


 2 昔話

 結局、お前はどの飲料(いんりょう)を常用するかと問われたら、紅茶かコーラと
言うよりほか仕方がないのではないか。なぜなら、少年のとき飲んだおいしい井戸水
や、岩づたいに落ちてくる天然水の味を連想したのは、このふたつだったのだ。それ
が果たして当たっているのかどうかも、年寄りの鈍った(にぶった)味覚のせいでそ
う思えたのかもわからない。また特別、このことで自己主張をしたいという見識もな
い。それでは無意味だと言われたら、そんなことはないよと、答える。
                (雑誌『dancyu』より)

 こんなふうに隆明は、昔話をしてもそれで終わることがない。それですませたことがない。そして、「武勇伝(ぶゆうでん)」を語らない。60年安保の時、国会に突っ込んで警官隊に追われ、必死に逃げ込んだ場所が警察だった、などという話がどこまで、そしてどのように「本当の話」なのか私たちは知らない。ただはっきりしていることは、「そんなにカッコいい話じゃねえんだよ」という、いつもの変わらない隆明の姿だ。何人かの昔話のあいさつは、昔話の向こう側を聞こうとしても、むだだった。いらだちが、少しばかり私に生まれたが、隆明は笑って聞いているようにも、ちっと待てよ、と言いそうにも思えた。また、私の幼稚(ようち)な『共同幻想論』の理解からしても、大きくずれ込んだ、見当違いのあいさつ。それでも、
「あなたはボクのことをまったく分かってませんね」
「ちゃんと読んでくれ、としか言えません」
と返し、会場の私たちを沸(わ)かせた隆明を思い出せて嬉しい。

 また私は、吉本さん、みんな死ぬんですね、と突然思ったりもした。


 3 吉本隆明全集

 山本哲士は、『心的現象論』にまつわる話をした。吉本理論が世界最先端の水準にあるということに話は始まる。そして何度聞いても面白いのだが、吉本隆明は『共同幻想論』で、『古事記』の誤った解釈をしている、しかし、『共同幻想論』を理解しないと『古事記』の構造は分からない、という話だ。
 晶文社社長の太田泰弘の話も良かった。今月、ようやく『吉本隆明全集』が刊行の運びとなった。太田は、
「大手の会社をさしおくのは無礼(ぶれい)かと思い」
遠慮していたところ、ブログでのよしもとばななのつぶやき、
「全集が出せない……」
を発見。そんなバカなと、半分驚き半分喜び、全集企画(きかく)を決意したという。おそらくばななのつぶやきは、大手出版社の気後れ(きおくれ)を意味している。こいつらは自分たちの「自信のなさ」を、隆明のせいにするに違いない。あるいは、現在の文化状況のせいにするに違いない。自分たちのやってきた仕事に自信が持てない、ということにこいつらは気づかないのだ。
 第一回配本3,000部は売れ、そこで「浮足(うきあし)だたないように」と、700部増刷(ぞうさつ)を決めた、という報告だった。読者は、オヤ、と思っただろうか。ばななは10~50万部というのに、これでは丸がひとつふたつ足りないのではないか、と思っただろうか。このブログの読者にはそういう方もいらっしゃると思う。しかし、そうではない、とだけ言っておこう。「揺(ゆ)るぎない」ことの結果なのだ。
 単価6,500円、次回配本は6月、その後は隔月発行となる見通しである。この太田社長と話が出来た。良かった。
 
 トイレに行こうとしたら、出てくるところの三上治とちょうど顔をあわせて、少し話が出来て、これも良かった。
 暖かな『横超忌』の一日だった。


 ☆☆
山本氏が、
「もう、老人が進んでさ」
と言うのです。お昼に八重洲口(やえすぐち)でラーメンを食べたのです。そこを出て、すぐにタクシーを拾った(ひろった)のですが、タクシーの支払いで使おうとしたラーメン屋のおつりがない。いや、あるのですが、なかなか見つからない。それでまたお札を使う。おつりがたまって小銭(こぜに)があちこちのポケットで音をたてている。
山本氏やっぱり親友だなと、こんな時つくづく思います。

 ☆☆
そんなわけで、今回はどうしても吉本が書きたかったもので、福島の報告の「下」は次回となります。

 ☆☆
昨日は、ずいぶんおそい「春一番」でした。ちょうどお昼頃、バイクを転がしていたのですが、道々、花を一輪下げた親子連れとたくさんすれ違いました。小学校の卒業式だったのですね。時折(ときおり)強い風にあおられながら、子どもたちの、この日だけ見せる顔。いいものですね。