実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百八十六号

2012-07-12 13:42:03 | 子ども/学校
 Ⅰ 被災地の顔
 
 Ⅱ 大津市皇子山中学校事件



 Ⅰ 七夕


 第一仮設の駐車場でバイクを降りた。夏の空が広い駐車場を覆っていたが、涼しい風が通りすぎていく。隣接する小学校が賑やかで、見ればプールで子どもたちが歓声を挙げているのだった。オマエら、もうすぐ夏休みだぞぉ。嬉しくなった私は思わずそうつぶやく。
「コト、ヨリさんですか」
近くで車を降りた方が近寄ってきてそう言う。見かけない人だが名札を下げているので、ここの人ではない様子なのだ。するとその人は、物資をいつもお世話になってます、と頭を下げるのだ。民生委員の方だった。いや驚いた。バイクに乗っていたのが目印となったのだろう。そのように周りが教えたのか、以前から見ていたのかは分からない。でもとにかく、このことは物資協力をいただいている方に教えないといけない。私的団体『いつかは米俵百俵』に協力いただいている人はきっと百人を越えている。その中でこのブログを見ているのは、多分半分くらいだと私は思っている。その五十人?の人にまず報告したいです。第一仮設の人たち、私たちの味噌・醤油に本当に感謝しています。あの人たち、本当は醤油や味噌ぐらいは買えるのです。確かに物質的なありがたさもあるとは思います。でもきっと、別な部分での「支え」が嬉しいのです。私はそう思っています。
 集会所は窓という窓を全部開け放っていて、風が気持ちよくレースのカーテンをなびかせていた。六人の方が集まっていて、皆さんこの日はほうれんそうのごま和えをつまみながら談笑中だった。この間はどうもね、と古着のお礼を言われる。椅子に置いてあったカバンをどけて座るように促すので、もうこの頃は私も遠慮しない。私はプールのことを言う。いやキャーキャーってよ、嬉しいんだどな、この間はもんのすごい騒ぎでよ、なんだど思ったらプールがはじまったんだな、いや、あの日はなんの騒ぎだってよ、そこの玄関(プレハブ)からみんな顔出しでだよ、とリーダーさんが言う。プール開きだったのだろう、去年は確かプールをやらなかったはずだ。嬉しいはずだよな、私はそう思ってもう一度窓から見えるプールを見た。授業は今、休憩か自由なのか、みんな思い思いに声を挙げている。
 持っていった色紙の『ルーキーズ』だが、皆さん知らないかと思ったら、息子や孫が見てたから、という方もいたし、あとから顔を見せた副会長さんは、まだ現役ということでの視聴者だった。…ハヤトでしたっけか、みたいな記憶も残っていた。そうか、まだ震災前の配信だったな、と私は思った。管理人(市役所から派遣される受付の人がこう呼ばれる)さんはまだ若く、色紙を本棚に納めて、集会場に来る子どもたちの反応を楽しみにするのだった。
 おばちゃんたちが喜んだのは葉書だ。郵便局勤めの仲間が大量にくれたものだ。色とりどりの暑中見舞い用葉書を喜んだ。あら、よく見たらスイカばかりじゃねえんだ、ホントだ、カニも花火もあんだ、そう言いながら、じゃあ、アタシにもそのヒマワリ分げでよ、と言いながら盛り上がる。くれた奴も喜びますよ、よくいっときますね、と私は言った。やっぱり女の人なんだなあとしみじみ思う。葉書はまだまだたくさんある、テーブルの上に見かけたらみんな持っていって欲しい、そうおばちゃんや管理人さんにお願いした。やっぱりここでは力をもらえる、私はしみじみ思った。
 さらに力は押してきた。コトヨリさん来て、とサブリーダーさん(以下、もう「サブさん」と略称することにします)が私を呼ぶ。入るときに気付かなかったが、入り口に七夕の竹が飾ってあった。色とりどりの短冊の中から二つ、読んでみて、と私に勧めるのだ。息子が書いたんだよと言う。
「どんな不幸を吸っても 吐く息は感謝でありますように」
「大きな努力で小さな成果」
「過去が咲いている今 未来の蕾がいっぱいの今」
「誰のせいでもなくて、全ての事は自分が蒔いた種であると悟れますように」
東京勤めをやめてこちら(四倉)で働いているという息子さんの、楷書で毛筆の字は丁寧に短冊の裏と表を飾っていた。こんなに頑張っているのにちっとも変わらない現実、でも過ぎたことを恨むまい、未来を憂うまい、という心を自制しながら静かに書いている。いつも夜に勉強してんだよ、とサブさんがいうこの息子さんの姿を私は思わないわけにはいかない。この短冊を私は伝えたいと思い、メモしていいですか、とノートを出した。メモしているうちに私は、知らず知らず目頭が熱くなるのをどうしようもなかった。
 テーブルに戻ったサブさんが、ああやってコトヨリさんみたいにちゃんと読んでくれる人もいれば、なんつーことねえって感じの人もいっぱいいんだよなあ、と言ってるのが聞こえる。そんなことないっつうか、サブさん、これは魂の言葉ですよ、と思いながら私は書く。そばでニコニコ笑いながらリーダーさんが見ている。そして、この間はたまたま古着ん時いなくってよ、一着ぐらいとっといてくれればいいのによ、とぼやいている。私は、つい先日が母の三回忌だったことをはたと思い出した。そうだ、うちの母ので良かったら着ませんか、ありますよと私は言う。いやいや、そんな積もりじゃと、リーダーさんが恥ずかしそうに言う。
 また楽しみが出来た。
 帰る間際、私が『三万石』で買って冷蔵庫に入れたゼリーを思い出し、明日食べるの忘れないで下さいね、と言う。いやいやそういうことはもちろん、と、またおばちゃんたちは大笑いだ。


 Ⅱ 異例の展開

 どうなってるんだと私に言われても困るが、そんな感じでそちこちから言われている異例の展開の事件である。
 まず私が最初に疑問におもったのが、この大津市の事件が明るみに出るタイミングの悪さ、いや、遅さである。事件がようやく巷で話題になったのは7月。事件は昨年の10月である。このタイムラグは一体…ということだ。今までいろいろないじめ事件があったが、被害者が自殺という形をとったとき、それは即刻ニュースとなった。「マンションから転落」という扱いではじまるこの大津皇子山中事件は、まだまだ謎に包まれている。経過その他は公文書などもネットで出ているので、時間のある方は参照してみるといいが、この事件、すでに両親の提訴で裁判がこの5月にはじまっている。そして、市教委はそこで、
「いつ・誰が・どのようにいじめたというのか、その証拠を示せ」
なる驚くべき発言も「すでにやっている」。経過を見ると、要するに学校・市教委が徹底して「団結して」不誠実な対応をした結果がこんなに「遅れたスタート」をもたらしたのか、という印象を持ったが、それは次号に譲ろう。
 事件直後に学校関係者が必ずやること、それは、
「事実関係を調べたいとおもう。今のところいじめがあったとは聞いていない」
である。しかし今回は違う。それはもう「終わっていた」。つまり、学校側の言い分として通常残っているのは。
「いじめはあった。しかし、いじめと自殺の因果関係は不明」
である。これを今頃言っている。しかもさっき書いたが、先立つ5月の口頭弁論では「いじめの証拠があるなら言って見ろ」と遺族に噛みついている。市教委側はつまり、いじめを認めてなかったのだ。ここ二カ月ぐらいの間での変化である。
 今日の正午、教育長の記者会見がニュースになった。昨夜の、これも異例中の異例の職員室(学校)への家宅捜索のあとだ。大河内君の時(1994年)も警察は入ったが、これほど大がかりの家宅捜索はかつてなかったはずだ。きっと警察独自の判断ではない。市長(側)からの判断・力が働いたとおもわれる。教育長は態度を翻した。
「いじめは自殺の一因だったとおもう」
なんの恥じらいも感じさせない顔だった。なんの気後れも感じさせない堂々とした顔だった。この日(つまり今日)、校長が校内放送で全校生徒に呼びかけたという。
「安心して学校生活を続けて欲しい」
「学校は先生・生徒一丸となって頑張りましょう」
だってよ。まっとうな生徒だったら、
「『安心して』って、どうやって安心しろっつーんだよ!」
「オメエラと一緒にして欲しくねえよ!」
と言わないといけないよ。先生らよ、こんな時あんたら、いや謙虚に私たちと言おうか、私たちはいつも、
「私たちが騒いでもどうにもならないし」
「どうなってるんだか、さっぱり分からないし」
って言ってきたし、今もそう言ってんだろうな。そうじゃねえんだ。一度たりとも「騒いだことのない」あんたたち、いや私たちは「どうにもならないかどうか」分からないのだよ。どうにもならないってのは「騒いだ」あとに言うことなんだ。ホントに


 ☆☆
この大津市皇子山中事件は次号でも扱います。ちょうどいいと思うので何度かこのブログで報告した群馬県桐生市の上村明子ちゃんのこと、その後どうなっているかあわせて報告します。それはひどいものです。今回のことが明子ちゃんの追い風になることを願います。

 ☆☆
第一仮設のおばちゃんたちが、コトヨリさんもつけるといいよ、とくれたのがお寺さんの支援でもらったという桧のブレスレット。同封されていた説明書によれば、京都桂川河川改修による移転に伴い、古い本堂の移築が叶わずやむなく再建、その旧本堂柱(1621年!)を使ったものだ、とありました。京都は常念寺です。嬉しい。私の腕を飾っています。