実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信四十四号

2011-06-20 10:25:51 | 福島からの報告
震災から100日

 今になって自分の傷の深さが身に沁みる、とは身近な仲間の言葉だ。震災後、自分のことなど問題ではない、と気を張りつめて自分を奮い立たせていたのかと思う、そう語った。気がついてみると、震災のことではない、自分自身のそのことで精一杯の自分がいる、そう語るのだ。我に帰るということでもあるのだろう。そんな時期が訪れているのだな、と思った。
 今、被災地でももちろんそんな変化が訪れている。一番端的なもので言えば「生命が助かって良かった」思いで、その幸福とその助けられた生命を維持しようとの思いで、被災地は無我夢中で疾走してきた。今新たに彼らに襲いかかっているのは、今さらながらの「喪失感」だ。失ったものへの愛着と記憶が、取り返しのつかない気持ちをさらに加速してえぐっている。
 四月、私はいわきに支援にやってきて、朝の桜に挨拶する人がいれば、見も知らぬ私に挨拶するいわきの人々の姿を見て感動した。健気にも逞しくもみえたその人々のことをここに書いた。しかし、それらは少し変化を見せているようにも思う。
 四月、「県外の人がこんなに頑張ってくれているんだから、いわきの人はもっと頑張ってもらわないとだめだ」と私に言った地元の看護士さん。「大丈夫なんです。放射能は怖くない」と気丈に言った地元の高校生。当時、それは言われた通りに受け取っていい言葉だった。震災に負けないぞ、原発なんかに負けてたまるかという言葉だったと思える。
 きっとこれらの言葉は今、ふたつの流れに別れている。ここでも何度か書いたが、被災のひどさは、どこでもそれぞれ違っていた。海岸でも市街地でも、原発隣接地域でもそれらは本当は個別的だった。そして人々、いや、あえて日本や東日本が被災しているという立場に立てば「人々」ではなく、「私たち」となるが、その私たちはこの100日の間、自らがどんなふうに被災し、そしてどの程度被災したのかということをこの目で耳で確かめてきた。
 一方では受けた傷の深さを癒せることなく、日ごとにその痛みを強くする人たち。しかし、その一方に被災の程度に安堵し、もとの生活感覚に戻っていく人々がいる。もちろんそれは悪いことではない。大切なことは、日本全体と言ってもいい、そんな広い場所で引き受けていた驚きや悲しみ、そんな広さで、そして、みんなが全員が共有していたと思っていた驚きや悲しみが、100日たってそうではなくなった、全体の、全員のものではなくなったのではないか、そんな風に思えるのだ。
 今それらは「どうにも救いようのない」気持ちと「まだ良かった」気持ちへと別れ、孤立する場所と落ち着きを見せる場所へと分断されようとしているように見える。この場合、分断とは、悲惨と安堵の両者の場所が背を向けあう時に生ずることだ。そういうことでは、まだまだ分断にいたるまでには至っておらず、可能性をはらんではいるのだが。
 もとの生活感覚に戻るに際しては、これも何度も繰り返して来たが、その「もとの生活」が「どのようなもの」だったのかを問うことが前提だ。そしてだから「どのように」戻るのか、が問題なのだ。「放射能は怖くない」としっかりと(自分自身に)言い聞かせた高校生は、「放射能に勝つ!」などと言い放ち「生姜・油揚げ・タコ・ビールは効果てきめん!」と宴会さながらの、そんな健康雑誌など蹴飛ばさなきゃいかん。
 そして複数の週刊誌が「原発なしで今の生活は大丈夫か?」と寝言をかましている。バカなこいつらが闊歩するのも100日目なのだということなのだろう。「撥水対策」を施したジャンバーやマスク、「放射能は怖くない、花粉症対策とそれは同じ」(未だに「ハァ!?」だよ)といった無責任・非科学的・能天気な見解も100日目で色あせたのか、何より暑くなってきて「それどころではない」日本で、それらは見かけなくなった。
 気になる最近のアンケート結果は、今回の原発の地元福島で「原発は必要ない・減らすべきだ」と答えたのは7割を切っていることだった。方や地球の反対側のイタリアで原発廃止の世論が9割だったことを思うと残念至極である。また、日本のメディアが「イタリアは原発いらないと言うが、隣の原発が林立するフランスから電気を輸入しているのだから、原発依存に変わりはない」という、実に意地の悪いコメントを流しているのも実に腹立たしい。



地方のニュースで

 今月の上旬、新聞各紙の地方欄で、元千葉県議の吉川ひろし氏が「信号無視、注意すると『私は県会議員だ。これは選挙妨害ではないか』と言い、再三の出頭通知にも応じないため逮捕」と報道された。
 吉川ひろし氏にはこの通信で登場してもらってもいるし、その活動には注目するものが多かったので、その真相を知りたいと思った。
 本人から正式に見解が発表された。ほぼ事実と思われるこれらの見解を書き抜いておく。冤罪というよりでっち上げの色が濃い。2009年に氏は「千葉県の不正経理(その中には千葉県警のものもある)」をかなりしつこく追及しているからだ。

 3月8日の午前9時半ごろ、右折矢印信号に従って通過。吉川氏は50ccのバイクに乗っていた。さて、おかしい点がたくさんある。以下、その点を箇条書きで。
・反則切符が切られていない(注意だけだったのか、それさえもなかったのかは見解に書かれていない)
・氏はこの日の午後、呼び出しを受け説明に行ったがひとりの警官の目撃証言を正しいとし、警察は五通の出頭通知を出す
・氏は四通に対しては文書で返事、最後の一通に対しては電話で「5月は無理だが6月にうかがう」と電話連絡。出頭拒否はしていない。
・そして「無理な5月」の最後の日、5月31日に家宅捜索と逮捕となる。7人の警察官が来て、トイレや部屋まで捜索した
・二泊三日の勾留となったが、さすがに検事は「勾留する理由はない」ということで釈放。

 以上が「信号無視」という案件で行われたことである。後に裁判となるだろうが、注目したい。このことが原因ではないにせよ(この逮捕のあとの投票ではあったが)今回の選挙での吉川氏落選は、はなはだ残念だ。