実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信第二号

2011-03-26 16:54:30 | ニュースの読み方
支援に行ってきます

 今後、原発の急激な悪化がなければ福島に行ってきます。いわきの地にはお世話になってます。知人が避難中、友人の墓もあるので。四日からの予定でいます。まぁ、偉そうに言ってもどれだけお手伝いできるか分からないのですが。


ニュースの読み方

 メディアでの原発の作業員の紹介に「下請け企業の」というくだりがついたのは、私の観察と記憶の限りでは今朝の新聞紙上で初めて見た気がする。本当はいまさらなのだが、「下請け」であることを私たちはしっかりと認識することが必要である。また「社員」と「作業員」の違いに今でも踏み込まずにいるのは、わざとなのか、不要としているのかはかなり疑わしい。ちなみに今日から、作業には「社員」が作業員に同行するというのだ。
 昨日の同じく朝日の夕刊の見出し「警報無視して作業」で始まる記事と、今日の朝刊の記事とはトーンがかなり違っている。従来の作業でもこういう危険な状況だった、とは技術者の証言で、今朝の記事はそれに基づいて書かれている。昨日は違っている。東電の発表をそのまま流した内容の詳細は省くが、前日現場に水はなく、放射線量も低かったから、という判断で始めた24日の作業だという。つまり、水がもしあった場合、という東電側の作業員への指示があったかどうかの説明は書かれていない。
 そして、昨日の東電の記者会見(ニュース)と、昨日の夕刊(要するに東電の発表のままである)によれば、作業員は放射線量計のアラームが鳴り続ける中で作業を続けた。「ベテランの作業員だ」が「(アラームが)故障していると思った」からだという。この言葉は、東電が作業員の運ばれた病院まで出向いて話を聞かないと不可能な話である。それを信じることにして、また、作業員が「アラームの故障」と言ったことを信じるにしても、原発の作業中にこういうこと(アラームが誤作動すること)はあるのだ、とはベテランが言ったのだ。ベテランだから、今までどおりそのまま作業を続けたということになる。この日の発表に「不可避の作業だった」あるいは「日常的な作業だった」というものは見当たらない。
 そして、この報告がいい加減であることを今朝の新聞は「訂正」することなく、技術者と社員(幹部とは書いていなかった)の指摘として警告している。前日の「警報無視して作業」という見出しは、言わせてもらえば巧妙に、であるが、今朝は「警報無視これまでも」と書き換えられている。
 最後に付け加えるが、今までも原発の汚水を定期点検や故障の時に処理したのは「下請けの」「作業員」である。線量計をつけた防護服を身につけ、モップで水を洗い、私たちが今回の報道で耳や目にした「駅伝のような」作業を彼らはやってきた。アラームの音を分かっていながら仕方なく作業員たちは今までも作業をやってきた。その中でも最もひどい環境で作業をする人たちは昔「原発ジプシー」と呼ばれた。
 今回「東電は撤退する」と言った時に、50人の作業員が残った。海外のメディアがこの事故の初めから注目している「フィフティーズ」である。消防団も自衛隊もすごい。しかし、日本のメディアがこの「フィフティーズ」に触れないのはどうしてか、大いに疑問である。


他人の痛み、ということ

 一般的に言って人は何かと、はかりにかけたがる。幸せや不幸を比べては「勝った」だの「負け犬」だのと言って、そう言っては自分を見失う。「勝った」場合は傲慢さを身につけ、そうでないときは過剰に小さくなったりひがんだりする。今回の想像を絶する震災を前に、それゆえ、私たちが同じような過ちを犯さないか、注意が必要と思う。
 第三者が当事者のことを理解したり、ましては介入することは難しい。今回の震災で改めて思う。スポーツ界の動きにそれは顕著だった。あの傲慢不遜なセリーグのオーナーやコミッショナーの「勇気・元気を与える」発言。選手たちの「こんなことやってていいのか」(ダルビッシュ)、「もし、被災者の方々がやっていいというのならやらせてもらいます」(選手会長)の発言に救われる思いだった。
 選手たちの発言は、被災者の気持ちや状態が今どうなっているのか想像もできない、という場所から出てきている。居ても立ってもいられないという気持ちはそんなところから出てくる。救われる思いだ。セリーグもパリーグに足並みを揃える、との決定後の星野監督発言「これで新井(選手会長)もヒット打てるやろ」と、ここのところ全くいいところなしの会長をフォローしたのにもホッとした。セリーグの偉いさんに謝罪をして欲しいところだ。選抜大会の東北高校の球児が言う「元気を送りたい」とは立場がまったく違う。
 学校や教師という場所も、そういう節度を持ちたいものだ。そして、それはこれから試されていく。もともと学校や教師というものは「指導」という他人(生徒)への介入を前提としたなりわいで成立している。だからこそ注意と配慮が必要だ。一体オマエ(教師)に何が分かるというのだ、と相手(生徒)が思っていることは百のうち九十くらいは当然なのだ。しかし、そういう自覚のもとに仕事に励んでいる教師がどれくらいいるのだろうか。今、少なくない教師が「こうしてオマエ(たち)は帰る家があって、三度三度の食事にありつける」、贅沢言うんじゃない、などと胸をはって教壇で演壇で言う。まるで今が千載一遇のチャンスであるかのごとく言うのだ。
 いい気になって被災者を代弁するこのような教師は、生徒が今抱えている悩みや不安を「大したことのないもの」として処理することになる。そのことで、ある生徒は学校・教師に失望し、ある生徒は自分自身を「良くない人間である」と裁定していく。いいことがない。「指導」を口実に「聞く耳を持たない」学校的体質が変えられるのかどうか、そういうことも〈震災〉は迫っている。


 ☆今後、週に二、三回の発行は無理かも知れませんが、週に一度は発行いたします。ごひい  きのほどよろしくお願いします。

 

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2 コメント

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実践教師塾楽しみにしてます (スマイル)
2011-03-26 18:53:28
読ませてもらいました。とても熱く熱く読み入りました。
今回の東京電力の対応に私も頭にきています。そして、その裏にいろいろなことが隠されているんですね。知らずに毎日を過ごしている自分が恥ずかしくなります。
また、人は皆はかりにかけて比べたがる、考えさせられます。自分もそのような心が自分の中にあるからです。
私は微力ながら、教育に携わる者ですが、今回の震災からこんなに日常の子供との関わりと関係することがあるのかと感心しています。次号楽しみにしています。
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傲慢 (傷覚)
2013-06-26 20:53:28
前回のブログにて、私は我執という言葉を学び、その意味を知り己れに気付きました。今回のブログでは、私は、傲慢である。ことにも気づかされました。我執と傲慢、私が多くの人々の心を踏みにじり、傷つけて来たことは確かです。時には、愛する人でさえ大きく裏切り、傷つけて来たことは、紛れも無く事実です。我執と傲慢が生み出し育てたものは、傷つきやすく、壊れやすい、臆病な心でした。その心を守る為に、私は、今まで避けられない未来に背中を向け、逃げて、快楽や暴力に助けを求めて来ました。自分に気付くという辛さ、今まで築いてきた自分の仮の姿を、覚悟という名の鉄槌で壊し、改めて人生を出発していけるように勤めここに誓います。この事を忘れないように、我執傲慢院傷覚と改名します。そして、これからは、他人の痛みを気遣い
配慮出来るように心掛けます。本日もありがとうございました。
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