実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

尊攘 実戦教師塾通信八百五十五号

2023-04-07 11:36:53 | 思想/哲学

尊攘

 ~混沌から学ぶ~

 

 ☆初めに☆

「初めに」のコーナーですが、書きます。「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」で、坂本龍一の病状がひどく進行しているのだ、と思った人は多いことでしょう。最期は、桜が満開になるころだったのですね。YМOはもちろんですが、私はラストエンペラーで大尉・甘粕正彦を演じた坂本が、片腕で登場したのを思い出します。もちろん監督・ベルトリッチの演出ですが、エキセントリックで妖気漂う甘粕を演じる坂本は、魅力的でした。あとは、2001年アメリカ同時多発テロ事件の時、当時ニューヨーク在住の坂本が、その翌日だったか「暴力による報復をしてはいけない」と訴えたことも忘れられません。変わらない立ち位置が好きでした。十年後の東日本大震災の年、私が良くお邪魔した塩屋埼近くの避難所・ホテルサザンパシフィックに、坂本の娘・美雨が慰問に来たことも思い出されます。

陽光に健気な……。我が家の庭です。

 

 1 「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」

 前回取り上げた反射炉の敷地内に「山上門」がある。もとは江戸の水戸藩小石川邸にあった。

幕末には名だたる人々が、この門を出入りした。昭和初期、当時の陸軍省から払い下げ、那珂湊に移築された。

前回の最後に書いた「勅書」は、時の天皇・孝明天皇の出した「戊午の密勅」と呼ばれる。この勅書が出された時も、数々の武士たちが蒼ざめ、あるいは真っ赤な顔でこの山上門をくぐった。安政五年・六月、大老に就いてわずか二か月の井伊直弼は、屈辱的と言える日米修好通商条約を、朝廷の許可なしで結ぶ。「戊午の密勅」は、このことに憤った天皇が幕府と水戸藩に送ったものだ。直弼はこの頃、いわゆる「安政の大獄」を激走中だった。

 

 2 水戸藩の分裂

弘道館・正庁入口の藩士たちの控室には、掛け軸が下がっている。ストロボが効かず真っ暗なのだが、「尊攘」とある。本当は下の写真のように書かれている。右には「安政三年龍集丙辰春三月奉」とある。

少し前置き。武家政治を迎えた後、朝廷の力は必衰となる。これが江戸の後半に変化を見せる。それが光格天皇の影響であることは、以前に書いた。歴史がずっと「天皇」名で続いてきたかのようになっているが、第63代冷泉天皇からは「院」称号(つまりこの場合「冷泉院」)が続く。ここから約千年の間「天皇」は封印される。この「天皇」名を復活したのが光格天皇である。あとを継いだのが、戊午の密勅を出した孝明天皇だ。しかし、次々と勅命なしにことを進める幕府(直弼)の登場は、またしてもの朝廷の凋落(ちょうらく)を意味していた。ここで激怒した孝明天皇が「幕政の改革は水戸藩に」なる勅書を出すのである。それが「戊午の密勅」である。

 さて、この掛け軸は徳川斉昭が命じて書かせたものである。この頃開国へと傾いていた幕府にあって、攘夷(海外勢力排除)の斉昭は孤立を余儀なくされていた。安政三年のこの書は、斉昭の覚悟を示す。「尊攘」なのだ。案の定、閣僚会議で斉昭は孤立した。しかしこの折、水戸藩は一枚岩とならなかった。せっかくの「幕政の改革は水戸藩に」という趣旨の「戊午の密勅」は、水戸藩の結束を強めず分裂を促進した。勅書の登場は朝廷の没落を意味していたし、江戸を襲った安政地震で斉昭の腹心・藤田東湖は死んでいる。かなめの斉昭も桜田門外変の直後に亡くなった。軸を失った水戸藩内は、勅書を受領し諸藩に回達(回覧)というものと、受領拒否するものとで真っ二つとなる。勅書受領を主張する過激派の「天狗党」が、筑波山で最初に挙兵する。排除された藩の重鎮もそこに合流し、すべては那珂湊に集結。水戸藩は水戸と那珂湊を挟んで内戦の様相を呈した。

 

 3 ウクライナ

 今まで水戸藩内の抗争を耳にしないわけではなかったが、注目のきっかけは弘道館内での特別展示だった。

これは武訓場。

特別展示にあった藩内抗争への私の質問・疑問に、学芸員が対応してくれた。中には天狗党の「天狗」は、どうにも鼻持ちならないという世間の風評にもある、という話も聞けた。その後、水戸市内の本屋に行って分かったことは、水戸藩をめぐる文献が豊富であること、茨城大学の人たちが弘道館を世界遺産にするため動いていること等だった。

 ここで繰り返さない手はないので書きます。ボリシェヴィキ政権の1918年、ドイツにロシアのウクライナ地方が割譲された時、ウクライナは三つに分裂して内戦となった。ひとつはドイツに降伏する。ひとつはウクライナを捨て、ロシアの他地域に移る。もうひとつがウクライナの独立のために戦う。以上である。歴史に記録されるのは、ロシア・ウクライナ地方のドイツへの割譲だけであるが、歴史はそう簡単なことではなかった。水戸藩もそうだった。

 

 ☆後記☆

訃報が続きました。芹沢俊介です。近くに住んでたので何度か顔も合わせてましたが、もうかれこれ10年も会ってませんでした。岡崎勝さんとの共著『学校幻想をめぐって』を読んで、芹沢さんが感想をくれたことで交流が始まりました。この書で私は、結構な分量を芹沢さんについて費やしました。芹沢さんは「言葉の通じない外国で、日本人に会ったような気持ちになった」という感想くれたのです。

新学期始まりました。次週の記事は、子どもたちに絡んで芹沢さんのことを触れていきたいと思ってます。

 ☆☆

四月になりました。と言っても、こども食堂「うさぎとカメ」は、もう来週となっています。吉野家さんの牛丼には、竹の子の煮物を添えようと思っていま~す

野球も目が離せないけど、藤井君、やっぱり勝ってしまったですね(「乗り鉄」だそうですよ)。