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退屈 実戦教師塾通信八百五十六号

2023-04-14 11:25:58 | 子ども/学校

退屈

 ~芹沢さんたちとの対話(上)~

 

 ☆初めに☆

「チャットGPT」が話題になってます。喧騒と言っては失礼ですが、いいのか悪いのかという議論です。そんな議論をよそに、このITの新しい現実が構築・蓄積されるのは間違いないと思われます。「スマホ脳」で立証済みなことは、それによって道具として活用する人たちと、道具に支配される人たちに二分されたことです。「調べたい」「知りたい」動機の軽重によって、この二極化現象が生まれました。「真実を知るなら、ネットで知るからいい」(欅坂・46)圧倒的な人々を、私たちは知っているはずです。この二極化した現実を、チャットGPTがさらに広げるのは間違いありません。芹沢俊介さんを追悼しながら、積極的・肯定的な道を見出したいと考えます。

 

 1 持て余す時代

 20年近く前、是枝監督の『誰も知らない』が公開された年の暮れ、池袋の書店で座談会があった。メディア上に現れる子どもの事件や現象を、ずっと追っていた芹沢俊介。子どもに密着し続け子どもを見守り論評して来た斉藤次郎。中学校教師の私、の三人である。翌年、この座談会がきっかけで、私の『学校をゲームする子どもたち』が発行となった。お二人の力添えがなかったら、この本はなかった。この場を借りて、改めて感謝したいと思います。

 私の話に対しとても新鮮だったと、(斎藤)次郎さんが言ったのは「退屈している子どもたち」というフレーズだった。それまで、子どもの実態や事件を語る時に使われたのは、同じ「屈」でも「鬱屈」とか「屈折」というもので、この頃頻発していた子どもたちの事象、例えば「成人式を台無しにする袴を着た成人」など、どこか滑稽さを思わせるものを説明するにはどこか不満を感じていたという。それがこの「退屈」で、いたくピンときたらしい。20年後の今となっては、これが「退屈の必要がない、出来ない子どもたち」に変化した。ただ、どちらにも共通なのは「行き場のない気分」「持て余し気味な自分」であることだ。そこには「ここではないどこか」を「生き急ぐ」ものは見当たらない。「本当の自分を探す」「仮面をつけた自分に疲れた」などと今でもよく聞くのだが、それは要するに、今(まで)の自分に嫌気がさしたということだ。その一方で、自分に合う相手を探してくれる結婚アプリが重宝しているようだし、先ほどのチャットGPTが歓迎されてもいるわけである。「自分探し」派は、自分の退屈を紛らわすことが出来ずに生まれたのだろうか。退屈の間は持て余し気味な自分が見えるからだ。「結婚アプリ」派は、それが自分に便利だったのか振り回されたのか、これから検証することになる。どちらにも希望と絶望の道は開いている。私はもちろん、結婚アプリもチャットGPTも、気色が悪くて仕方がない。しかし、そんな私も、ネット上の根も葉もなさそうな話題を見つけると、我慢できずについ見に行ってしまう。そうしてジャンクな話題のヒートアップに加担するのである。そう簡単なことではないな、と思うのは開き直りか、と反省したりもする。

 

 2 ガーシーという時代

 座談会に戻ります。録音され起こされたものの中で、当時私が勤務していた中学校の悪ガキの話で、現在に引き継げる部分を抜き出しておく。面白い。時代がもうひとつ前の校内暴力は不満や反抗を後ろ盾にした、そして「自分の身体を張った」ものだった。しかし、この時のものはそうではない。座談会で何度も出て来る「ゲーム」とは、この時の悪ガキ連中のガラス割りや授業のエスケープの出所が、「ゲーム」のように見えたからである。

斎藤 でもさ……「ゲーム」ってさ、ゲームの世界って世界観みたいのがあって、全体がどういう構造かというのを了解する……けど、今の琴寄さんのかわいい子どもたちのやってることってさ、そういうゲームじゃないね。その中の一つのシーンを演じるっていうか。

芹沢 場面が構成できればそれでいいと。

斎藤 当面の敵、あるいは敵もどきがいたりして、ちょちょっとやったら、「ああ、うまくいったじゃん。もうできたよな」と言う感じ。

芹沢 うまく乗っけたよという……。

斎藤 ……ゲーム全体の目配りをして遊ぶというのも嫌なんだね。面倒くさい。もっと手前のことろで、……ちょっと模倣するという感じ。やり方はすごくゲーム的だけど。実際のゲームほどじゃない。

琴寄 だから、時間が持続しちゃうとちょっとな、というのがあるんじゃないかな。

芹沢 しんどくなるのかな。

「場面ごとで満足できればいい」という、この時の「子どものありさま」が、今は社会全体に及んでいる。「気に入らないことがあったら、気に入らない奴がいたら罵ればいい」という、場面ごとで満足できればいい社会が大手をふるっている。すべてはその一瞬・一瞬で完結して行く。ガーシーなる人物が話題になってるが、この男のあり方はこんな社会の在り方を良く説明している。持て余したオーラを派手に放っているこんな奴が、国会議員として大手を振るっているのである。

 

 ☆後記☆

座談会で私が熱い語りをする中、お二人は興味深く聞き入るのでした。優しい子どものような表情は、今もはっきり思い出せます。次郎さんも同じく10年ぐらい会ってません。元気なのかな。

なんか一気に庭が動き出して、これは紫蘭。4,5日前までは何もない地面だったのです。

 ☆☆

先月に続き、明日も最悪の天候になりそうな「うさぎとカメ」で~す。せっかくの吉野家さんの牛丼なのに

明日発行のチラシ。裏だけお見せしますね。11日は柏市内の中学校が入学式でした

オオタニさんと藤井君に共通することを、また見つけました。本人たちの背後に両親が全く姿を見せないことです。オオタニさんがそうであることを以前書いたと思います。藤井君の父親も「天才を育てる家庭教育」とかいう本出してないはずだし、母親は「藤井聡太を育てたメニュー」なんて料理本も出してないもんね。大したものですね