実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

健康 実戦教師塾通信七百九十三号

2022-01-28 11:29:55 | ニュースの読み方

健康

 ~ウィルスに伴走するもの~

 

 ☆初めに☆

まともにものを言えない、と多くの人が感じているのではないでしょうか。「(オミクロンなんて)風邪なんだからさ」(ビートたけし)と言うもはばかられます。こんな中、帰国していて(ホントにいるのかと思うようです)、多分黙々とトレーニングを続けているオオタニさんや、史上最年少5冠などいう喧噪をよそに修練を積んでいる藤井君に、希望を見出す次第です。

私たちが見失いかけているものを確かめておくことが、いま大切だと思われます。

 

 1 無症状

 苦しみや痛みがない生活を、私たちは「元気」と言ってきた。それがコロナで変わった。ウィルスを抱えている身体は、もはや放置できないとなっている。それが「レベルの違う感染症だから」という言い方に、私たちが違和感を感じた時間は短かった。中国の武漢封鎖のニュースは異様だったし、あとをWHOの「パンデミック宣言」が引き継いで、私たちは一気に危機に引き寄せられた。症状がなくとも「発症したら大変なことになる」ウィルスがアナウンスされ、私たちは追随した。

 東京オリンピック開催の是非はともかく、これがコロナ感染拡大に加担したと糾弾した人たちは、いまは静まり返っている。昨年の暮れ、年明けの「コロナとインフルエンザの競合」をあおったお医者さんは、どこに行ったのだろう。検証のないまま、私たちは日々の感染者増加にうち震えている。前に言及したように、インフルエンザと比してコロナが狂暴か否か、未だによく分かってない。この整理のついてないところに新しいウィルスが誕生して、新しい不安が生まれている。こんな中だから、医療専門家は適切な態度を取れないでいる。始め平気な顔していた若者は、高齢者に感染したらどうすると脅され、「うつる」と「うつす」の不安増幅運動に加わった。こうしていま、検査とワクチンに老若男女問わず行列が出来るようになった。今までだったら、様子を見てから病院へという道筋だった。それがなくなった。感染者数の増加は、本当にコロナの力なのだろうか。膨大な検査件数が原因となってるのは間違いない。

 細かい部分は定かでなくなったが、一昨年だったと思う。友人の山本哲士が講演だったかレクチャーを、企業に依頼された。引き受けて数日後、担当者からコロナの検査は済んでいるかという連絡があった。そんなものはやってないし、やる気もないと答えたそうだ。それは困ると、相手は畳みかけてきた。オレは元気だしすこぶる健康なんだと答えた。すると相手は、新しい宗教ですか、と応じたという。ここまで聞いて、私は噴き出してしまったが、笑ってはいられない。本気で「健康かどうかは自分で分かるものではない」と、社会が思うようになった。「風邪はどこに行った?」のである。

 正体の見えない病への対処は昔も今も横暴で、人権を踏みにじって来た。ハンセン病がそうだし、天然痘もおなじだ。「探し出し閉じ込める」戦略で、今と変わらない。

 

 2 寿命

 メディアや野党は、3回目の接種が遅れた政府の責任を追及する。しかしこれは昨年、第五波が「原因不明の激減」をした時に言うべきことだった。安全な場所から勝手を言うのでなく、お互い油断しましたね、ぐらいに自己検証する節度がいる。政府や専門家(医者)を批判する態度は、それらに依存した結果生まれる。自律的な態度が、私たちの中で浸食されている。どんなことが起きているのか。ひとつは「健康かどうかは自分で分かるものではない」という態度だ。まだある。

 病気や病症と相対する時、不思議なことだが、そこで私たち「人間」の具体像がはじき飛ばされる。分かりやすい例は「寿命」だ。私たちは生まれ落ちると同時に「死ぬ」ことを引き受ける。人は「死ぬ」のである。コロナ下で、この「天寿」というものがないかのようにふるまっている。例えば、自由奔放に生きた志村けん、あの人は「あり得ない死」だったのか。親族がまったく接することの出来ない状況下で最期を迎えた。それが悲惨の影を濃くしたのは確かだが、基礎疾患という名の、自らが痛めつけた身体の悲鳴だったことも確かなのだ。

 厚生労働省のマニュアルによれば、遺族の対面は出来るようになった。しかしその後も、最後の対面も許されず、荼毘(だび)に付されているという。それらの悲惨が、おそらく「コロナで死んではいけない」声を呼び起こしている。一昨年、あのドゴール大統領のあとを継いだフランスのジスカールデスタンが死んだ。94歳。この時もコロナによるものだと、大々的に報道された。しかし考えてもみよう、94歳での死去である。コロナがなければ、死因は心不全か肺炎とされたはず。ジスカールデスタンが「天寿をまっとうした」と言われるのは、名誉なことではないのか。

 東京都が自宅療養50歳未満の軽症者に対し、「患者自身に健康観察をしてもらう体制に切り替える」ことを発表した。少しホッとしている。

 

 ☆後記☆

栃木の高校生が暴行を受けた事件、郷里だからということで、余計に悔しい気持ちです。実は昨年ですが、私はこれと反対のケースを経験しました。つまり高校生の不始末という話。ご報告申し上げます。

夕方5時前です。駅の階段を私は下ろうとしていました。手すりで仕切られた左側の降り口は狭い。それを降りている人たちに、私は阻まれる形になりました。この時私は急いでて、またちょうど電車が入って来ました。それじゃと、がら空きの登り用階段を使っており始めました。すると電車から降りた乗客が、この階段に向かって殺到して来たのです。私は仕方なく、手すりにくっついて邪魔にならないようしました。するとアラ驚いた。高校生風情の若者が、その私にぶつかって来ました。それでなんと、私は手すりから、さらに登り用階段側へと弾かれる形になったのです。自画自賛ですが、この時私の左腕が、こいつのリュックをつかんでました。言っときますが、この野郎と思った時ではもう遅いのですよ。要するに私の腕が勝手に反応した。普段の稽古のたまものです。何が起こったか分からず振り向いたこいつの顔は青ざめてました。そのまま引っ張って階段から落とすのは雑作もないのですが、死んでしまうかもしれません。その格好のまま、階段上まで行きました。謝れよ、の私の声に、こいつは「(手すりの)内側を使え」と泣きそうな顔で言うのでした。

冬枯れの手賀沼です。皆さん、お体ご自愛下さい