詞の伝播(でんぱ)
~2022新年所感(2)~
☆初めに☆
いつも通り、近くの広幡八幡まで初詣に行ってきました。
バイクシューズも悪くない。恥ずかしいほど立派ないでたちです。この着物、昨年知り合いの方から譲り受けました。今回がデビューです。詳細は控えますが、訳あって私が初めて手を通すのです。ありがたい。頑張るぞの思いで、祈念して参りました。
1 「切符を用意してちょうだい」
折に触れて聴く懐メロCDである。私と同世代なら知ってるはずの『夜が明けたら』。その導入部を聴いて、なぜかハッとした。今までどうして気づかず聴いていたものかと思った。
夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために一枚でいいからさ
今夜でこの街とはさよならね
わりといい街だったけどね
歌うのは浅川マキ。風貌も歌い方もそっくりなもので、カルメンマキだと思ってた。調べてみたら、カルメンマキは存命だが、浅川マキは亡くなっていた。カルメンマキは私より少し年下で、今も阿佐ヶ谷界隈で歌っているらしい。浅川マキは、生きていれば私よりだいぶ年上だった。そんなわけで『夜が明けたら』も、作詞はてっきり寺山修司かと思ってたら、浅川マキ本人の手によるものだった。こちらの方面でも、気づかされることが多かったわけである。
さて、この導入部の広さに比して、二番以降は次第に狭い場所に進んで行ってしまう。導入部の特に最後の「わりといい街だったけどね」の部分に、オッと思ったのだ。一番列車に乗る。夜のうちに出発すればいいのに、おそらくすでに終電がない。でも「もうここはいいかな」という気分が、すっかり出来上がっているから、翌日の一番列車に乗る。そして「わりといい街だったけどね」という。後ろ髪を引かれているのか。切ない気分になったわけが、私にはある。
2 「もうこごに来てくんねがと思うどよ」
この曲、年に一度ぐらいは聞いてるはずである。でも、今年初めてハッとした。おそらく、私が新刊(『大震災・原発事故からの復活』)を書いているうちに、もたげてきた思いのせいだ。
「もうこごに来てくんねがと思うどよ」
かすれて詰まった声が、集会所でそう言った。新刊に出て来るこの声は、2015年の春で閉鎖したいわきの仮設住宅でのものだ。4年の間続けてきた定期的な支援を、私たちは2月で「区切り」をつけた。しかし中止したのは、あくまで「定期的」な支援だ。これはあの日、たくさんのお茶請けを用意して私たちを待っていた、おばちゃんの声である。おばちゃんたちの陰から、その声が出た。あの瞬間、それまで涙しておばちゃんたちの話を聞いていた仲間たちも、顔を上げた。
この後何度も、私はおばちゃんたちのもとを訪れ、呼ばれもした。でもそのたび色々考え、いつしか足が遠のいた。新刊を書いて整理し、ようやく気が付いたように思った。あの言葉は、おばちゃんたちの優しい優しい「さようなら」だったのではないか。アンタたち、ホントにいい人たちだった、でもお別れだねと言ったのではないか。自分に厳しいおばちゃんたちだった。始め、私たちが支援を始めた頃、この仮設住宅には240世帯の人たちが暮らしていた。それが日を追うに従い、歯が抜けるように新しい暮らしへと移っていった。仮設住宅閉鎖までわずかとなったその頃、世帯数は半分の120まで減少していた。だから言ったのだろうか。「いつまでも甘えてられないんだ」と、おばちゃんたちの声は言っていたのだろうか。
でもやはり、私はとりとめがないままだ。
「今夜でこの街とはさよならね」
「わりといい街だったけどね」
どうしてなのか、身に浸みる。
☆後記☆
ついでにもう一曲。福島に行く時、行きの高速ではクイーン、帰りは欅坂46(今は「櫻坂」となりましたが)をいつも聴きます。「不協和音」を聴こうと思って購入したのが、衝撃的で何度も聴いてしまうのが『月曜日の朝、スカートを切られた』(作詞・秋元康)。欅坂なのです。だからスカートは、ОLのものではない、高校の制服。いまとは違って、通学電車は満員。これが金曜夕方の電車だと事情は全く変わるのでしょう。大体、高校生の下校時、電車は満員ではない。「スポーツも友達も」という教師の「アドバイス」が待つ、学校へ向かう「月曜の朝」の電車の中での出来事。思わず「ガンバレ」と声をかけたくなるのです。
何年ぶりでしょう。アメ横に行きました。大晦日の夕方は、ホントの最後の大安売り。でも私は、狭山茶を買って満足な大晦日です。
もちろん、浅草にもお参りしました。内田裕也がいた大晦日を思い出す、雷門です。
最後は、子ども食堂「うさぎとカメ」です。明日ですよ~ この寒さです。公園での配布、今回も断念。残念。
お待ちしてま~す!