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競技ではなく 実戦教師塾通信六百九十二号

2020-02-21 11:12:38 | 武道
 競技ではなく
 ~積み重なるものへ~

 ☆初めに☆
オリンピックで空手が採用されましたね、と良く声をかけられます。名前こそ出しませんが、ちゃんと分かってる人は喜びもしないし、何の期待もしていません。あえていい点を見いだそうとするなら、空手の認知度が広くなるくらいでしょうか。
 ☆ ☆
武蔵を有名にしたけれど、誤解もさせた張本人は、長編小説『宮本武蔵』を書き上げた吉川英治です。それに劣らず武蔵の名を挙げおとしめたのが、司馬遼太郎です。
「しょせん兵法は、太刀行きの早さで決まる」(司馬遼太郎『真説宮本武蔵』)
などという、スピード絶対がまかり通っている現在の、とんでもない「功労者」と言えるでしょう。
また一度、武道・武術としての唐手/空手を、道場での稽古(けいこ)を見ながら考えてみます。

 1 重心の内側へ
 古巣の道場で少し汗をかいた。厳誠流空手道厳誠塾・東京水元道場。

技の感触を確かめた。いかにも枯れた私にふさわしい、使い込んだ道着。
 組手(撃ち合い/蹴りあい)の様子を連写してもらった。どうしようもない動きもまだ多い。しかし、もしかして「進化」と言える部分も出てきたかも知れない。その辺りを考察する。

相手の攻撃をかわして前に出るところ。これほど左手と上半身を使っているのは、無駄。また、上体が少し浮き気味だ。本当なら右手で相手を制するのがベター。
 よい点もある。相手の重心の内側をここですでに攻略している。このポイントで相手が私の上段(顔面)をとらえても、決定打にはならない。またこれは、私の右足が相手に踏み込もうとする瞬間でもある。

これはすでに重心が後ろとなった相手をとらえ(制し)、対する自分の重心が落ちている。相討ち状態に入ってるようにも見えるが、相手の攻撃は体重が乗らない。私はこの時、後方から右足を前に摺(す)り足で進んでいる。以前は跳んでいた。跳ん(跳び足)ではいけない。
 次は、新陰流・武術探求会の前田英樹が見せる「十の太刀筋」より。分解写真(季刊iichiko『剣術の文化学』)。

オマエの技と一緒にするなと前田先生に言われそうだが、あえて「共通する点」として。相手が飛び込んで来る瞬間、左側の前田氏は少し踏み込みつつ身体を落とし、相手の懐(ふところ)を攻略している。相手の上体が前傾で進んで来るのに対し、前田氏の上体は沈みこんでいることに注意。

 2 太刀は振りよきほどに静かに振る
「武蔵の兵法は、武蔵ひとりに通用するものだった」(前掲『真説宮本武蔵』)
とは、呆れるほかない。武蔵の『五輪書』の書き出しを全否定する内容だ。これこそ武蔵が追求/克服しようとしたことだったというのに。何度も繰り返してきたが、これでは武蔵も浮かばれまい。
 相手が早く仕掛けて来るなら自分はそれよりも早くないといけない、というのはスポーツの世界の話だ。ひたすらスピードを求め鍛練し、体力を失った時は引退=OBとなる。少し違っていたのは、王の「球が止まって見えたので、打つのは雑作(ぞうさ)もなかった」というもの、そしてイチローの「自分の『型』を持ってないといけない」、あとは白鵬の「勝ちに行かない」ぐらいか(相撲はスポーツではないが)。
 以前も書いたが、フェンシングは身体を前方に傾け、一方の手で遠くに刀を差し出し、正面を向かない。これが自分の身を守り相手を攻撃する上でもっともいいという考えだ。しかし、古代では同じ構えをしていた日本は、戦国時代を境に刀を「両手保持」とし、むざむざと自分の身体を正面にさらす。この裏付けは、文献上でまだ解明されていないらしい。しかしこれが目指すところは、すべて武蔵の言うところにある気がする。
「……速きときも心は少しも速からず。……心は体に連れず、体は心に連れず」(『五輪書』「水の巻」)
そして刀はどのように操(あやつ)るのか。
「道筋よく知りては自由に振るものなり………太刀は振りよきほどに静かに振る心なり」(同上)
相手の太刀筋が分かれば、自分は自由に、そして静かに刀を振ることが出来る。

 唐手/空手の稽古をしていると、毎日発見がある。しかしそれは、「間違い」の発見ではない。それまでの修練に「積み重なる」ことを知る。調子のよい時でも、20分の歩行が困難となった脊柱管狭窄症の私だが、力でも速さでもない「唐手/空手」の魅力に取りつかれ続けている。


 ☆後記☆
今週は千葉県公立高校前期試験の発表でした。昼さがりに道を歩いている中学生は、3年生です。
国語のテストに、オヤと思いました。
「先輩のお気に入りのケーキを食べられるとはうれしいです」
の下線部を謙譲語(けんじょうご)、要するに敬語に直せという問題です。
正解はもちろん「いただける」ですが、けっこう多い解答に、「食べさせていただける」があったと推察します。私が良く言うところの、相手を気づかいすぎる「奴隷の言葉」です。出題者側も、言葉の現状が気になってるのだなと思った次第です。
「言葉の乱れがある」のではない、「過剰な気づかいを要する社会」なのです。

すぐ近くのお家の梅。紅と白、満開でした!