被害者像
~「被害者の気持ちに寄り添う」とは~
☆初めに☆
打ち続く不倫報道の喧騒(けんそう)とは、私たちの浅ましい好奇心の表出にほかなりません。
「ほんとうは二人しか知らない」か、「ほんとうのところなんか 誰にも分からない」(作詞 浜崎あゆみ?ってホント?)のだと思います。
☆ ☆
それでも、私たちは事件の当事者の姿、気持ちを追います。それが時としては、私たちがになうべき「責任」を背負っていることもあるからです。でもそこに節操が不可欠であることは、言うまでもありません。そんなことを、この間受けている報告や相談の中から考えてみます。
1 伊藤詩織
昨年暮れ、自らの性暴力(「強姦」ではまずいのかと、まだ思ってます)被害で、元TBS記者の山口敬之を訴え勝訴した伊藤詩織。彼女が、朝日新聞のインタビューに応えた(2月6日)。その中の、
こういう「当事者の発言」を前にすると、事件当時を回避する記憶障害が起こっているとか、傷がそれだけ深いとかいう「寄り添った」考えが必ず登場する。はっきり言うが、そういう論評も「被害者像の押し付け」という言葉によって退(しりぞ)けられている。退出しなさいと言われている。記者会見で彼女が堂々と、あるいはにこやかにさえ見えたことが、周囲の違和感を招いたようだ。でもそれがなんだというのか、という切り返しにも思える言葉は、
2 「良くしないといけない」
私はよく、「そのままでいいと思っているのか」と言われて来た。たとえば悪さを続ける子どもや、いじめへの対応で、私が「強引にやって、事態が良くなるものではない」とする時に言われる言葉だ。今でも言われ続けている。今年に入ってすでに、三回ほどあった。「なんとかしたい」と思っている人たちから、
悪いことを許してはいけない、と言う人たちが出来ることは、申し訳ないが「絶対許せない」と「思う」ことだけだ。身近にそういう、たとえば「よろしくない生徒」がいたとして、せいぜいそいつを「問い詰めor罵倒(ばとう)」する、そして「突き放す」ことだけである。必要なことは、まず「一体何があったのか」聞くことだ。「良く出来る」かどうかは、ずっと先だ。
少し古い話になるが、クスリ漬けになっている生徒に、どうにも打つ手を見いだせず、そいつの仲間たちに声をかけた。オマエたちなら止められるんじゃないか、という私からの「提案」は、
この時も私はさんざん、「アンタが甘やかしてるから、あいつは良くならないんじゃないか」と言われていた。私はサンドバッグでもないし、自分のアタマも持っている。だから、「じゃあ見てるだけのあんたたちでやってみなさい。出来やしないから」と、しっかり言わせてもらうのである。
賢明な読者は、こいつが家庭はもちろん、警察や病院という手だても、すでに通過した生徒なのだと思ったのではないだろうか。
3 親から捨てられた子どもの気持ち
最近の連絡(相談)である。ある先生が、
聞かせて欲しいと思うのは大切だ。しかしそう迫るのは、傲慢(ごうまん)でしかない。「被害者」も「弱者」も、そして「加害者」も、見えない壁を相手にしている。「ならんことはならん」という場所に希望はない。
☆後記☆
伊藤詩織問題へのコメント、いろいろ目にしましたが、ダウンタウン松本の、
☆ ☆
野村監督の訃報(ふほう)、驚きました。去年だったか、日本とアメリカをつないだテレビ(BS1だったかな)で、マー君と監督が対談しましたよね。あの時、監督が「最後の決め球は低めの外角」と言ったことに対し、マー君は「大リーグでは通用しない」と応じました。結局、それは決着がつかなかった。いつか続きを聞きたい、と思っていました。
~「被害者の気持ちに寄り添う」とは~
☆初めに☆
打ち続く不倫報道の喧騒(けんそう)とは、私たちの浅ましい好奇心の表出にほかなりません。
「ほんとうは二人しか知らない」か、「ほんとうのところなんか 誰にも分からない」(作詞 浜崎あゆみ?ってホント?)のだと思います。
☆ ☆
それでも、私たちは事件の当事者の姿、気持ちを追います。それが時としては、私たちがになうべき「責任」を背負っていることもあるからです。でもそこに節操が不可欠であることは、言うまでもありません。そんなことを、この間受けている報告や相談の中から考えてみます。
1 伊藤詩織
昨年暮れ、自らの性暴力(「強姦」ではまずいのかと、まだ思ってます)被害で、元TBS記者の山口敬之を訴え勝訴した伊藤詩織。彼女が、朝日新聞のインタビューに応えた(2月6日)。その中の、
「(『なぜもっと怒らないんだ』という自分の父親も)被害者は怒ったり泣いたりするはずというのは……被害者像の押し付けです」(下線は私)
という言葉にアンテナが立った。こういう「当事者の発言」を前にすると、事件当時を回避する記憶障害が起こっているとか、傷がそれだけ深いとかいう「寄り添った」考えが必ず登場する。はっきり言うが、そういう論評も「被害者像の押し付け」という言葉によって退(しりぞ)けられている。退出しなさいと言われている。記者会見で彼女が堂々と、あるいはにこやかにさえ見えたことが、周囲の違和感を招いたようだ。でもそれがなんだというのか、という切り返しにも思える言葉は、
「被害者の立場になってみなさい」
と諭(さと)す人たちには、面倒だったに違いない。2 「良くしないといけない」
私はよく、「そのままでいいと思っているのか」と言われて来た。たとえば悪さを続ける子どもや、いじめへの対応で、私が「強引にやって、事態が良くなるものではない」とする時に言われる言葉だ。今でも言われ続けている。今年に入ってすでに、三回ほどあった。「なんとかしたい」と思っている人たちから、
「どうして良くしようと思わないんですか」
「どうして許せるんですか」
等という言葉が投げかけられる。私がそのままでいいと思ってるはずはない。「それでいいのか」と怒って相手が変わるなら、苦労などない。「どうして許せるんですか」
悪いことを許してはいけない、と言う人たちが出来ることは、申し訳ないが「絶対許せない」と「思う」ことだけだ。身近にそういう、たとえば「よろしくない生徒」がいたとして、せいぜいそいつを「問い詰めor罵倒(ばとう)」する、そして「突き放す」ことだけである。必要なことは、まず「一体何があったのか」聞くことだ。「良く出来る」かどうかは、ずっと先だ。
少し古い話になるが、クスリ漬けになっている生徒に、どうにも打つ手を見いだせず、そいつの仲間たちに声をかけた。オマエたちなら止められるんじゃないか、という私からの「提案」は、
「いやあ、◇◇さん(同級生だが敬称だった)は、クスリでなんとかもってるんですよ。あれ止めたらもっとひどいことになってる」
と、しぶしぶ「否決」されたのだった。この時も私はさんざん、「アンタが甘やかしてるから、あいつは良くならないんじゃないか」と言われていた。私はサンドバッグでもないし、自分のアタマも持っている。だから、「じゃあ見てるだけのあんたたちでやってみなさい。出来やしないから」と、しっかり言わせてもらうのである。
賢明な読者は、こいつが家庭はもちろん、警察や病院という手だても、すでに通過した生徒なのだと思ったのではないだろうか。
3 親から捨てられた子どもの気持ち
最近の連絡(相談)である。ある先生が、
「親から捨てられた子どもの気持ちが分かりますか」
と、当事者である生徒から言われている。こういうストレートな言葉は、こちらの態度によって生まれる。ひとつは、遠慮がちに相手に寄り添う中で、相手が心を開いた時である。ここからはさらに慎重さが必要となる。「先生なんかには分からない」と相手が迷っているからだ。もうひとつは、相手の気持ちにずかずか土足で踏み入って、拒絶された結果だ。教師の思い込みを「押し付け」たからだ。とりあえず、撤収する以外にない。聞かせて欲しいと思うのは大切だ。しかしそう迫るのは、傲慢(ごうまん)でしかない。「被害者」も「弱者」も、そして「加害者」も、見えない壁を相手にしている。「ならんことはならん」という場所に希望はない。
☆後記☆
伊藤詩織問題へのコメント、いろいろ目にしましたが、ダウンタウン松本の、
「元TBS記者が『無罪』だとか『合意の上』だとか言ってるけど、女性の方が、あの時のことを思い出したくもない、イヤらしいことだと思ってることはどうにも動かしようがないですね」
というのが、私には印象的でした。☆ ☆
野村監督の訃報(ふほう)、驚きました。去年だったか、日本とアメリカをつないだテレビ(BS1だったかな)で、マー君と監督が対談しましたよね。あの時、監督が「最後の決め球は低めの外角」と言ったことに対し、マー君は「大リーグでは通用しない」と応じました。結局、それは決着がつかなかった。いつか続きを聞きたい、と思っていました。
いつも手賀沼周辺で、一番早く菜の花を咲かせる畑。それにしても今年は早かった!
春が来た!
春が来た!